山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 駒込 → 田端
- 架道橋 (ガード) ・跨線橋 -
1. 中里道 架道橋
2010年3月 掲載、2012年9月 銘板の写真を変更、2020年9月 改定
駒込駅の東口がある架道橋。ホームの下をくぐっている。
スコットランドの鉄骨と「明治」の銘板を見て、てっきり開通当初、通称 豊島線時代の架道橋かと思ったが、調べてみると初めは道が無く、戦後に架けられた事がわかった。
後半の「歴史と考察」で、推定も交えて 謎解きを試みた。「駒込駅の歴史」と重複する部分が多い。

ホームから(山手線の内側を見る)
2010.2.28
進入する内回り電車。右の2本は 湘南新宿ライン。山手線の内側から、架道橋に S1、S2、Y1、Y2 の番号を付ける。

山手線の内側 山手線の外側
取り外し式だが車止めがあり、普段は歩行者専用。

ホームからの詳細
線路に対して道路は斜めだが、明治の桁を再利用するために橋台の上部をジグザグ型にして対応している。新設なら、左右の桁をずらして斜めに架けるところだ。橋台そのもの(下部)は、線路に対して斜めの直線となっている。
橋台はコンクリート製 線路1本に対して、桁が2本
山手線の内側3本の桁は、「4主桁」の上路プレートガーダ。S1、S2、Y1 は同じ作りだと思われる。
桁S1 の銘板 (ホームから)
銘板は3組共に2箇所ずつ付いているのだが、錆とペンキの塗り重ねのせいで はっきりしないものが多い。一行目の右端が「治明」となっているのだけは読める。 
桁が明治時代に作られた事は間違いなく、それに続く3文字目は「四」のようなので、明治四十年代となる。
右から4文字目は損傷がひどいが「拾」以外になく、最後は「年」。5文字目は明治40年代の「四・五」ではないようなので、「壱」 「弐」 「参」のいずれかとなる。文字の形からすると 「弐」 のように思える。ほかの銘板も参考にして読み解くと、以下のようになる。
年 ? 四 治 明
作製社会資合造製車汽
LIVE ROAD COOPER'S E40
院  道  鐵
MATERIALS
 I-BEAM:LANARKSHIRE STEEL CO.
 CHANNEL: ??
 ANGLE:DOHMAN LONG & CO.
 PLATE:CONSETT IRON CO.
 RIVET:DAVID COLVILLE & SONS
製作したのは、1896(明治29)年創業の「汽車製造会社」で、おもに汽車・車両を製造していた会社である。1972(昭和47)年に川崎重工に吸収合併された。
3行目は設計に用いた活荷重の基準のひとつ。
発注者は「鉄道院」で、大正9年に鉄道省に格上げされた。
メインの鋼材はスコットランドにあった LANARKSHIRE STEEL 会社のもので、桁本体のウェブ部分にも刻印がある。その他の部材も、大正初期まではすべて輸入品に頼っていた。
線路の真下にある「 駒込駅高架橋」の東口改札を出ると、本架道橋に出る。

架道橋の壁 架道橋と東口(山手線の外側から)

石積みのように見えるが、古くなった橋台を隠すための「張りぼて」である。点検口があるのでそれとわかる。

東口は外回り電車の下。
架道橋を下からを見上げる
外回りの桁 Y2 だけは 1968(昭和43)年に架け替えられている。
左側が架け替えられたY2、水平ブレースがある部分はホーム。
後半で順を追って説明するが、初めに外回り電車の桁 Y2部 が1線だけ架けられた。
4線になった後にY2 だけが架け替えられたのは、老朽化のためではない。ホームが次第に長くなり、新しく設けた改札口からの通路が、架道橋の位置にあたることになったため、駅側の「橋台」を撤去しなければならなかったのである。
詳しくは、後半を参照のこと。

架道橋の下から改札を見る
巣鴨方向を見ている。Y2 の新しい桁を受ける梁は、高架橋の最後の柱に載せられている。


位 置(戦後の様子)
1947年(昭和22年)8月の空中写真/国土地理院
  駒込駅                        田端駅

中里道架道橋 データ
位 置: 北区中里一丁目~中里二丁目
 品川から 19K 250M
管理番号:  45
通りの名称: 北側:駒込銀座通り(駒込さつき通り)、南側:アザレア通り
豊島区と北区の境である
線路の数: 4線:山手線、湘南新宿ライン
支 間: 約 4 m
通路幅: 3. 5m ただし車止め状の障害物があるため、有効幅は 3 m程度
備 考: もともとはホームの範囲外だったが、ホームが延長されたために現状となった
名前の由来:  中里へ向かう道 の意味か?
戦後新たにできた道であるからこの場所ではなく、付近の道の名の転用だろう。中里村は旧谷田川の東側で、架道橋から近い位置にあった。
後半の 歴史考察で推定を行う。

地名の由来: 中里の由来については二つの説が言われているが、どちらでも大きな違いはない。
 ①古代において、豊島郡の中心の村であった
 ②古代の豊島駅の所在地であったため
豊島氏の支配下で、現在の上中里駅近くの平塚神社あたりに 本城である「平塚城」があったのなら、頷ける話しだ。

「中里」は、都内の地名としては知名度が低いかもしれないが、鉄道施設としては様々な種類が揃っている。
本項は「架道橋」、もともとは「橋梁」だったと思われる中里用水架道橋、現在山手線唯一の「踏切」、「跨線橋(陸橋)」である中里橋、そして「中里隧道」とその先の「中里跨線線路橋」の6種類。ほかにはないだろう。



中里道架道橋の歴史 考察

年 月
の部分は推定
1885(明治18)年3月 :日本鉄道品川線開通 単線(品川 - 板橋)

地図A 明治初期 山手線開通以前の中里村付近

1880(明治13)年測量 1890(同23)年修正 2万分の1/ 陸地測量部、に加筆
・・・・:谷田川、カーソルを乗せると 豊島線・・・・の位置を示す
が 架道橋のおよその位置。川沿いに田圃はあったものの、付近は恐らくすべて畑地で、道がほとんど無い。
豊島線が敷かれる頃に「中里道」と呼ばれる道があったとすれば、岩槻街道の上駒込村のY字路(現在の六義園の北端)から中里村に向かう ・・・・の道だったろう。

1903(明治36)年4月:  山手線 池袋 - 田端間 開通、単線
 初代 駒込橋 完成。ただし駒込駅は未開業

地図B 明治末 山手線開通後 6年目
豊島区地域地図 第4集 1909(明治42)年/豊島区立郷土資料館、に加筆
右側は同地図の範囲外。地図Aと同じ位置にするために、左に寄せてある。
山手線はまだ単線で、駒込駅は未開業。が本架道橋の位置で、巢鴨町(現豊島区)と滝野川村(現北区)との境となった。山手線ができたこと、また行政区割りの変更で、以前の「中里村」が分断され、地図Aで推定した中里道は西居村への道となってしまった。
このため、新たに設けられた駅近くの踏切を通る道(・・・点滅)が、中里道と呼ばれるようになったのではないだろうか。
その駅近くの踏切名を (仮称)中里道踏切 とする。なお、右の側中里踏切は後の 中里第一踏切 である。

踏切があった場所
山手線の内側から撮影したもの。
ここは本郷通りから「谷田川」の河原に下りていく途中で、丁度、線路と同じレベルになる所である。
線路の反対側も坂の状況は同じで、緑の植え込みが斜めになっているのが見える。
ホームとの関係もひとつのポイントである。
写真左側に屋根の形が切り替わるところがあるが、そこから左側が戦後の6両編成時の最初のホームである。踏切は、そのホームの右端を横切っていく位置にあった。

1910(明治43)年:  池袋 - 田端 複線化
11月15日  駒込駅開業(初めの名前は 妙義駅という説あり)

駒込駅開業 1916(大正5)年修正の地図
豊島区地域地図 第4集/豊島区立郷土資料館 に加筆
複線となって駒込駅は開業したが、初めの頃の電車は「一両」編成なので、ホームの長さはせいぜい 20m程度。駅舎の形などはわからない。
全体として 状態は変わっていない。

1925(大正14)年3月:  巣鴨 - 田端 複々線化
 ホームが現在の位置(新山手線)に移る
 神田-上野間が完成し、環状運転 が開始される

複々線化 1929(昭和4)年修正の地図
豊島区地域地図 第4集/豊島区立郷土資料館 に加筆
復刻版作成時の地図の貼り合わせがまずく、ずれたり傾いたりしてしまっているが、本郷通り側に新駅舎ができている。市電が敷かれ車庫もできた。
複々線になったが、あいかわらず中里道架道橋部分には、はっきりとした道はない。市街化が進んで、架道橋の北側の道ははっきりしてきた。

1940(昭和15)年頃:  谷田川が暗渠化される
 第二次世界大戦


敗戦 1947(昭和22)年の空中写真
A~Cの地図とは縮尺が異なる  国土地理院/撮影は米軍
本郷通り           3線踏切    架道橋
「中里道架道橋」として、山手線外回りの1本だけが架けられている。架橋年は不明。内側3線は踏切である。
この時点での山手線の車両数は6両。長さ 約 120m。ホームの右端には当初から「東改札口」ができていたものと考えられる。
山手線の外側(写真 上側)からは、中里道架道橋を くぐって 二本の線路の間にある通路を、東口(ホーム)に向かって登って行く。山手線の内側からは、ほぼ水平に踏切を渡って、上記の通路に出ている。
ホームの屋根だけで駅舎らしきものがないので、切符売り場や改札はホーム端部にあったと思われる。

中里道架道橋 1963(昭和38)年 の空中写真
灰色部分は過去に延長されたホーム↑  アザレア通り
この写真の車両は7両編成。(電車の最後部は、写真の外で写っていない)
15年間のあいだに中里道架道橋に2本ないし3本の桁が追加され、南北が繋がっている。ホームの屋根のさらに右側に駅舎・改札口が移転している。

架道橋部分の2本の山手線の間は まだ隙間があり、駒込駅高架橋はできていない。
プラットフォームは3両分伸びている。2両分のプラットフォームと、それに続く右端の白い屋根部分に色の違いがある。

詳しくは「駒込駅の歴史」参照のこと。

1968(昭和43)年: 10両編成のために ホームを再延長。中里道架道橋の上にホームができると共に、山手線外回り(写真では一番上)の桁が架け替えられる。
この時に 駒込駅高架橋やホームの現在の階段ができた。
1968(昭和43)年10月 :10両運転 開始。
 
1991(平成3)年12月 :ホーム延長。 11両運転 開始。




転用された桁
以上より、中里道架道橋は戦後に造られたもので、湘南新宿ラインの S1・S2、および 山手線の内回り部 Y1 に使われている「明治の桁」は、ほかで使われていた桁を転用したものである事がわかった。
コンクリートの使用は明治40年代からあるそうなので、桁もコンクリートの橋台も明治、ということもありうるが、複雑な形をした「コンクリート橋台製」は、やはり新しいものと考えた方が納得いく。

しかし、中里道架道橋が「全面開通」した時期は特定できていない。調べた資料からは「1950年から 1956年」と、幅がある。
明治期、さらには 40年代に架けられていた「鉄桁」は少ない。しかも長さがわずか 4m。
近くで候補として考えられるのは、「大塚架道橋」に架けられた複線の桁である。単線の開通が 1903(明治36)年、複線の開通が 1910(明治43)年、そして1924(大正13)年の複々線開通時に架け替えられた。
しかし2本では 1本足りないのと、支間が4mでは幅が狭すぎるので、車道に架かっていたとは考えにくい・・・。

そのほかの候補としては、
  1909(明治42)年 品川 - 烏森 間
  1910(明治43)年 烏森 - 呉服橋 間 開通
のどこかで使われていたものであることが考えられる。
  1908(明治41)年 御茶ノ水 - 昌平橋
もあるが、この間には狭い架道橋は無さそうだ。


周辺の状況

駒込さつき通り (山手線の外側)
まさに 地元商店街。 いつも活気がある。

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