山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 駒込 → 田端
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −
2. 中里用水 架道橋
2010年3月 掲載、 2020年5月 改定
本項の内容は、一部「中里道架道橋」と重複する。

ここは、昔「谷田川」が流れていた場所である。谷田川は染井墓地にあった「長池」その他を水源とし、不忍池に注ぐ長さ5km ぐらいの川だった。それを象徴するのが、架道橋の近くに保存されている欄干である。
コンクリート製の欄干
暗渠化された時に移設されたものだが、どこで使われていたものかは不明。総長 2.5m、欄干部分の長さ約2m、高さ約50cm。ベース20cm。


全 景 (山手線の外側から)

2010.2.24
山手線北部の池袋-田端間では、いくつもの台地を横切っていくために沿線の高低差が激しい。大塚から巣鴨に向かう途中から駒込駅までは「掘割り」、ここでは「築堤」、そして建設当時の最大勾配である 千分の10で田端に向かってどんどん下りていく。本郷台地と道灌山の間では、川が流れていたここが最も低い場所である。
谷田川は場所によって違う名前で呼ばれており、はじめは「谷戸川」、駒込の辺りでは豊島区と北区の境界を流れるので「境川」、田端では「谷田川」、台東区の根津付近からは「藍染川」である。境川以外は、昔の地名にもなっていた。しかし現在は、中里用水と呼ばれている例はなさそうだ。かつて流域はたんぼだったはずで、その時の呼び名だろう。
架道橋の歴史と、地図による川の暗渠化の時期の検証は後半で。

山手線の内側

中里用水架道橋はギリギリ2車線しかないため、すぐ田端側(写真右側)に歩行者用の架道橋がある。

高さ3mあれば、一般車の通行に問題はない。周辺よりも 少しだけ道路レベルを下げてある。
山手線の外側

すべて 2010.2.24


一画に残るレンガ造の橋台

この架道橋の注目点は、田端側の橋台の半分(現在の湘南新宿ライン2線)だけが「レンガ造り」ということである 。
田端側に残る レンガ橋台(桁の架け替え前)
手前が山手線の内側。奥が コンクリート造の橋台。 2010.3.8
その理由は、最初の山手線に架道橋(または 橋梁)が架けられたあとで、道幅が広げられた結果だと考えられる。
古い橋台の片側だけをそのまま利用し、残りは新設したものである。複複線化を契機として広げられたものと思われる。
外側(写真奥)の橋台が新しいということが、1925(大正14)年の 巣鴨 - 田端間の複々線化時に、山手線の外側に増線された証拠となる。

駒込側の コンクリート橋台(架け替え前) 打ち継ぎ目地

2010.3.8

2020.2.15
4線とも同時期の拡張工事だろうが、まず現山手線部分を先行して完成させ、仮設線としてそれを使用して営業しながら旧線の架け替えを行ったはずである。駒込側のコンクリート橋台の中央に、打ち継ぎ目地がある(写真 右)。

桁の詳細(架け替え前)
2010.3.3
桁下の寸法を確保するために、1線あたり4本の桁で構成するプレートガーダを採用して、桁の高さを小さく抑えていた。
現在は、この部分の桁は架け替えられている(次項)。
リベットが使われている鉄骨桁には、残念ながらどれも銘板が無かった。新旧4本ともほぼ同時期のものだと思われるが、詳細に観察すると、内側と外側の各2線のディテールに違いがあった。架け替え時に4線が同時に製作されたのではないとすると、古い桁を転用した可能性もある。
レンガ造の橋台は湘南新宿ライン2線が使っているが、下り線がギリギリの位置に乗っていた( 印)。
山手線の池袋−田端間(豊島線とも呼ばれた)は、開業時に「複線」分の用地を確保して単線で開通した。レンガ橋台もあらかじめ複線分が作られたが、なんらかの理由でこのような不自然な状態になった。開通当初の車両幅に較べて現在のものが大きくなったためか、線路の間隔基準が変わったのか?


2線のみの架け替え

そして 2012年の末に、レンガ橋台に載った内側2線の桁だけが交換された。ほぼ同じ時期に架けられたはずの桁なのに、なぜ 片側2線分だけが取り替えられたのか?
架け替えられた2線(手前)

2020.3.1
以前の桁と異なる点は @ リベット留め → 溶接、A4主桁上路プレートガーダ →2主桁(注)トラフガーダ、B 塗装仕上 → 亜鉛メッキ、C 桁の高さ 480mm → 540mm。
理由として考えられるのは、やはり耐震補強関連である。1995年の阪神大震災を契機とし、更に2011年の東日本大震災を受けて、公共施設の耐震補強は今も続けられている。
レンガ橋台へのアンカーが不十分と判断されたのだろう。架道橋では一般的に落下防止金物が取り付けられるが、この架道橋は桁下が小さい上に道幅が狭いため、通常の金物を取り付けると大型車の通行の障害となる。このため、橋台の一部をコンクリートに造り直して、アンカーした金物の上に新しい桁を載せている。
2020年時点では、山手線(写真奥)の2線の桁は まだ架け替えられていない。

注) 2主桁とした理由:湘南新宿ラインを営業しながらの架け替え工事であり、運休無しあるいは最小限に抑える工法が取られた。新しい桁は既存桁を挟む位置に架けられた。手順は、
 @新設位置の橋台上部をコンクリートに置き換え、金物を設置
 A新桁をセット(仮留め) B既存レールと桁を撤去
 Cあらかじめ組んでおいた横桁を主桁にボルト留め
 D主桁を橋台に最終アンカー Eレールを敷設
鋼材性能の向上と、トラフガータ(下図 印)にすることで梁成をかせぐことで、それまでの4主桁を2主桁で架け直した。
架け替えられた2線

マウスを載せるとを表示。


位 置 (戦後の様子)
1947年(昭和22年)8月の空中写真/国土地理院
  駒込駅                        田端駅
中里用水架道橋 データ
位 置: 北区中里一丁目〜中里二丁目
 品川から 19K 359M
管理番号:  46
通りの名称: 南側:谷田川通り
線路の数: 4線:山手線、湘南新宿ライン
径 間: 5m450 (道路有効幅 5m)
支 間: 6m
空 頭: 3.12 m 制限高さ:3.0 m
竣工年: 内側2線は1903(明治36)年 頃
 山手線開業時
外側2線は1924(大正13)年 か翌年
 複々線化時
備 考: 2012年、内側(旧山手貨物線)の2線の桁が架け替えられた。
名前の由来: .不明
「用水」の意味は【色々な用に供するための 川または引き水】であるから、自然の川でも構わないのだが、現在は、谷田川を「用水」とは呼んでいるところはない。明治末まで、この上流や下流に水田があったので、線路が敷かれた時には、そのように呼ばれていただろう。
なお、道になる前から橋が架かっていたのだから、最初は「中里用水橋梁」 だったはずだ。
地名の由来:
 中里
中世 北豊島郡あるいは滝野川村の中心に位置する村落、の意か・・・。



中里用水架道橋の歴史

架道橋部分の地図を見ながら、その歴史を整理してみたい。
の部分は推定 あるいは 未確認事項。
地図について:1909(明治42)年に始まる陸地測量部/国土地理院による1万分の1地図を利用しているが、現地は 王子、三河島、早稲田、上野の4つの地図のの境目付近である。豊島区郷土資料館が、これらを張り合わせて復刻版を作成しているので、これを利用させてもらう。

年 月 項 目・備 考
1885(明治18)年3月 日本鉄道品川線開通 単線 (品川 - 板橋)
1903(明治36)年4月 山手線 (池袋 - 田端、別名豊島線) 単線開通
当初はアーチ・カルバートだったか、それとも当初から 橋梁 だったか?

地図A 1909(明治42)年 測図
豊島区地域地図 第4集/豊島区立郷土資料館 に加筆。元図は国土地理院。以下同様。
カーソルを乗せると、川、踏切と駒込駅の予定地が表示される。
まだ単線の状態。橋梁 あるいは ガード の記号「=」がある。線路部分では川に沿った道は無く、橋梁だったと思われる。
では、それは木造だったか 鋼製か?
豊島線の開業当初、細い道はすべて踏切、主要道路の跨線橋も木造だったようで、幅の狭い用水路を跨ぐ橋梁は「木造」だった可能性がある。もちろん、初めから鋼製だったかもしれない。

1910(明治43)年 池袋 - 田端 複線化
 2線となる。初めから用地は確保されていた。
同年 11月15日  駒込駅 開業

地図B 1916(大正5)年 第1回修正

カーソルを乗せると、川が表示される。
駒込停車場が記入され、鉄道記号の中央に線が引かれて複線になったことが表わされている。橋梁および道路の状態は、地図Aと変わっていない。
地図では道路や線路そして駅は”記号”であり、実際の幅とは異なることが多い。複線化されても地図の状態が変わらないのは主にそのためで、初めから2線分のレンガ橋台が用意されていたのは、現地に残っている橋台に継ぎ目が無いことから明らかである。

地図C 1921(大正10)年 第2回修正
5年間の変化は家が混んできたこと。そのためには道路が必要で、山手線の外側(図の上側)では、川沿いの道が線路まで達した。橋梁の状態は、地図Aと変わっていない。

1925(大正14)年3月 巣鴨 - 田端 複々線化
 コンクリートの橋台が造られ、4線となる。
 同年 11月 神田-上野間がつながり、環状運転が開始される

地図D 1929(昭和4)年 第3回修正
複々線化から4年後の姿。地図Cと比べると、橋の記号の幅「=」が長くなっている。線路沿いの道は、限られた一部にしかできていない。 
複々線化に伴って橋の幅が広げられ、桁が架け替えられたものと考える。その根拠は、線路が増やされた山手線外側の橋台が「左右同じ作り」であるため。もし 複々線化時に桁の数だけが増やされ、その後に幅を広げたのなら、橋台の建造は3代、すなわち レンガ橋台・古いコンクリート・新しいコンクリートとなるが、現状はそうはなっていない。
また、線路の内側(図の下側)でも、川沿いに道ができて線路まで到達しているように見える。
以前から100m田端寄りに踏み切りがあるので、ここをくぐれなくてもなんとかなるが、それまで川だけをが流れていた橋の幅が広がったのだから、広がった分は道としただろう。
ここで参考になるのが、冒頭に載せた「欄干」の写真。
保存された欄干
2010.3.3
親柱を除いた欄干部分 すなわち川の幅は 2m弱。架道橋の幅は5mであるから、2.5m 程度の道はできる。
人や自転車が行き違い、大八車程度は通れる道ができたのではないかと考える。車が通るとしたら、一方通行である。

地図E 1937(昭和12)年 第4回修正
状況は全くと言っていいほど変わっていない。まだ暗渠化されていないことを示すために掲載。

1941(昭和16)年12月〜1945(昭和20)年8月:太平洋戦争

地図F 1945(昭和20)年 戦災復興地図

カーソルを乗せると、川が表示される。
終戦直後。上流には川の記号が残っているが、線路部分は戦前に暗渠化されて道路となっている。線路脇の道は まだ無い。



谷戸川・谷田川の源泉 長池

太古には石神井川が不忍池に流れ込んでいた、というのが定説となっているようだ。王子で東に向けて流されるようになってからは、谷田川の水源は染井墓地にあった「長池」だったと考えられる。墓地には池の痕跡が残っている。
中里用水架道橋 と 長池 (山手線の外側)
 染井墓地                 駒込駅
 
明治20年の地図
    中山道
中央が長池。現状の染井墓地は、この埋葬地よりも少し広くなっている。池の左側は今は青果市場である。
池は 明治末には干上がって、大正時代に墓地とされたようだ。
長池の跡
南から北を見たもの。右側の一般の墓地よりも 1m以上低くなっている。後から墓地化されたために、古い墓石は無い。

残る石垣 (手前はコンクリート) 池の北側から流れ出していた川の跡

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