山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 西日暮里 → 日暮里

西日暮里 駅

山手線のなかで、唯一 昭和、しかも戦後になって開業した駅である。
2020年になれば、高輪ケートウェイ駅が開業する。

まず 1969年(昭和44年)12月に地下鉄千代田線の駅ができる。
およそ 1年半後の 1971年(昭和46年)4月になって、西日暮里駅ができた。
田端側 から
1.3キロしかなかった 田端-日暮里間に新駅ができたので、田端-西日暮里間は 800m、西日暮里-日暮里間は 500m となった。
                           (田町-品川間は 2. 2キロ)
次の写真でも、右奥に西日暮里駅のホームが見える。
田端から 西日暮里に向かう
新駅ができるまでの勾配 千分の25 は山手線に何カ所もあるが、現在は34‰(パーミル)。 かなりの急勾配である。

崖下の平野部を走っているのになぜこうなったのか?
それは、「元は踏切だった道路と立体交差するため」 。さらに新駅建設時に、ガード下の「空頭」を大きくするために勾配をきつくして、線路レベルを高くした。
『写真で見る山手線100年』の西日暮里の項に、地下の千代田線との関係で高架になったように書かれているが、地下鉄とは何の関係もない。


西日暮里駅の歴史

1916年(大正5年)修正の地図
旧版一万分の一 上野/大日本帝国陸地測量部/国土地理院 に加筆
以下 同様
    道灌山           赤枠部分が後の西日暮里駅
駅ができる部分は道灌山の尾根が少し低くなっており、昔から、現在の道灌山通りに相当する道が東西(図では上下方向)に通っている。
この後も、少なくとも1925年(大正14年)までは、踏切の状態が続く。
初代の架道橋
 
1930年(昭和5年)測図の地図
東北本線: 至 尾久
尾久経由の東北本線が開通したのが 1929年(昭和4年)6月である。
駅部分の立体交差化は、この前後、昭和の初めに行われたようだ。
初代の架道橋は現在のものよりも道幅も狭く、桁下も小さかっただろう。
架橋の詳細は「間之坂架道橋」で述べる。
図の赤枠内で 一番下の複線部分、それから上から2・3線目の東北本線に、「土盛り」の記号が付いている。 そらに平行する2本の貨物線(ともに単線) はまだ地上を走っており、「ガードと踏切のセット」がふたつ @ A あった (カーソルを乗せると表示)。 後に、この貨物線は両方とも撤去される。

1924年(大正13年)に、道灌山に開成中学B が移ってきている。
なお、田端との間にあったもう一つの踏切に長い跨線橋(前掲地図の左側C)が架けられているが、戦前に姿を消したようだ。

西日暮里駅は 「間之坂架道橋」に掛かっており、改札口は架道橋の下にある。
西日暮里公園への階段から (山手線の内側)

 
三次元立体ホーム (日暮里側から)
ホームと交差する道路の場所が最高地点で、前後は元の線に戻るために勾配となっている。 さらに線路がカーブしているので、手では図面が書けないような立体的な太鼓橋状態であり、屋根の形はさらに複雑である。

明るいホーム 千代田線色のベルト

1971年(昭和46年)開業の高架駅

千代田線に行くには、改札レベルで乗り換えとなる。

周辺の情景

新幹線と併走
田端から品川まで 併走区間は長いが、地上で同じレベルはここだけ。

西日暮里公園に登る階段 開成学園
左側が駅である。
急な法面は、道幅を広げる時に削られたものだ。
 
公園の上から。右側が駅。
田端の切り通しほどは深くない。

駅名 西日暮里 の由来

西日暮里駅の所在地である、荒川区の住所「西日暮里五丁目」による。

荒川区には「東日暮里」と「西日暮里」しかなく、日暮里駅の住所も、主に同じ西日暮里の二丁目である。 (一部は台東区谷中七丁目)

日暮里駅からは「北北西」の方向となるが、荒川区西日暮里の駅を「北日暮里」と命名するわけにはいかなかったのだろう。

日暮里の地名の由来は、日暮里駅の項で・・・。

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