山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 西日暮里 → 日暮里

1. 間之坂 架道橋
まのさか かどうきょう
2010.3 掲載
2019.9 新幹線建設部分の間違いを修正

JRの分類では、田端 - 東京間の山手線は東北線の所属となる。

1883年(明治16年)に 日本鉄道 上野-熊谷間が開業した。
現在では、西日暮里駅付近の二つの架道橋以外は総て跨線橋となっているが、開業当初、上野までの道路との交差のほとんどは踏切だった。

遠 景 (山手線の内側から)
西日暮里駅 の項でも述べたが、ここも 昭和の初めまで、踏切だった。

1916年(大正5年)修正の地図
旧版一万分の一 上野/大日本帝国陸地測量部/国土地理院 に加筆
     道灌山           現 道灌山通りの踏切    諏方神社
1930年(昭和5年)測図の地図
立体交差化は、この少し前、昭和の初めに行われたものと思われる。

この時点では 下から 電車線2本、貨物線1本の踏切、東北本線4本、貨物線1本の踏切、である。

山手線の多くの架道橋が、昭和の初めにはおよその「形」が決まっているのに対して、「間之坂架道橋」の歴史は戦後になって大きく変化して、この初代の架道橋はすべて作り直される事になる。

現在は、新幹線をいれて 合計10本の線路が通っている。
後半で、この後の増線の歴史・変化を説明したい。
全 景 (山手線の内側から)
全景と言っても見えるのは ひとつの架道橋だけ。 下路プレートガーダ 閉床式。
近 景 (山手線の内側から)
奥の離れた位置に架かっているのが、東北本線のガード。
東北本線部の架道橋の全景 (山手線の外側から)
一番左のうす水色の大きなコンクリート桁が、新幹線のもの。
近 景 東北本線の架道橋 (山手線の外側から)
歩道部分には 雨除けの屋根が架かっている。
ガード下の駅の入口
西から東に向かって道が下っているために、ここは階段である。
スロープは離れた場所にあるが、初めての人がここまで来てしまうと スロープの場所はわからない。
ホームから見た架道橋 (田端方向を見る)
架道橋はほぼホームの中央にあり、上下線ともブレーキ区間なので、飛び散った錆で真っ黒である。
ガード下 (日暮里方向を見る)
左はホームの桁、右が京浜東北線北行き。 新しいだけに しっかりした作りである。
新幹線と 東北本線との隙間 (田端方向を見る)



位 置 (終戦後の様子)
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院
  西日暮里駅(将来)                           日暮里駅
間之坂架道橋 データ


田端-上野間では架道橋や橋に、「坂の名前」を付けるのが決まりとなっている。
 (一部 例外あり)
その理由は、
東北本線のルートは赤羽以南 上野まで、台地の縁(海蝕崖のすぐ下)を通した。

崖から坂を下った所に踏切ができ、その後架道橋や橋とするときに、その坂道の名前を付けたためである。
位 置: 荒川区西日暮里五丁目
  東京駅から 6K 357M 91
管理番号:  41 (東北線)
通りの名称: 道灌山通り (都道457号線)
線路の数: 4線 : 山手線、京浜東北線
2線 : 新幹線
4線 : 東北本線(宇都宮線、高崎線)
支 間: 26 m 100
空 頭:  4 m 50 cm   制限高さの表示は なし
竣工年:

鉄桁は、
銘板による
 製作年
山手線部分の桁:1968年(昭和43年)
  同   橋台A:1970年(昭和45年)5月
  同   橋台B:1971年(昭和46年)1月
東北本線の桁:  1969年(昭和44年)
  同   橋台:1982年(昭和57年)3月
新幹線部分桁:1983年(昭和58年)3月
  同   橋台:1982年(昭和57年)7月
備 考: 東北本線の桁は、新幹線工事で移設再利用された。
名前の由来: 山手線の内側、日暮里方向に線路と平行して登っていく坂の名前を付けた
坂名の由来: 不明 ・未確認
諏訪台と道灌山の間にある坂 の意味か?


間 之 坂

間之坂 (日暮里方向) 反対側の坂 (田端方向)

 線路に沿った両側とも坂となっている。
 こちらが元からあった間之坂

  右側の道は昔は無く、最初に架道橋ができた
  時に通された。 (仮称)新間之坂。
道灌山通りを含めて、以前のレベルはもっと高く、駅の開業・道路の拡幅時に数メートル掘り下げられたようだ。 ガード下の有効高さを 十分に確保するためである。
その証拠のひとつは、両方の坂の歩道部分が最後に不自然に階段となっていること。 以前は歩道が水平なレベルに道灌山通りがあったと考えられる。
駅から見た 間之坂
山の上は「西日暮里公園」となっていて、道灌山などの説明板がある。
 
坂の曲がり角から 駅を見る
石垣の上の西日暮里公園は加賀前田家の墓地跡ということで、左側のしっかり積まれた石垣は、江戸時代のもののようだ。


間之坂架道橋 の 歴史

1883年(明治16年): 日本鉄道 上野-熊谷間 開通
1892年(明治25年): 上野-赤羽 複線化
  1896年(明治29年): 田端駅 開業
1909年(明治42年): 日暮里-田端 複々線化
  1929年(昭和4年): 日暮里-赤羽 尾久線 開通
1930年(昭和5年)測図の地図
旧版一万分の一 上野/国土地理院 に加筆 次の地図も同様
立体交差化はこの少し前、昭和の初めに行われたものと思われる。

この時点では 下から 電車線2本、貨物線1本の踏切、東北本線4本、貨物線1本の踏切、である。

戦後、昭和の時代の大きな変化は、三つ。
 □1956年(昭和31年)11月: 電車線の複々線化、
                    山手線・京浜東北線の分離
 ■1971年(昭和46年)4月: 西日暮里駅 開業
 □1985年(昭和60年)9月: 新幹線の上野乗り入れ
1956年(昭和31年) 修正測量の地図
東北本線                                京成電鉄
電車線の複々線化 直前の状態である。
前の地図と較べると、下から二番目の貨物線の一部が撤去され、その線路のあいだに交番ができている。
 
□1956年(昭和31年)11月: 電車線の複々線化

この時、線路は平野側(東側)に増線されたが、以降の空中写真は上の地図とはスケールが違うので、その様子がわかりにくい。
 (前掲地図の 緑の四角の範囲が次の写真部分)

参考のために、時代が前後するが 終戦直後 1947年の空中写真を掲げる。

1947年(昭和22年)8月の空中写真
国土地理院 / 次の写真も
空襲で焼けて、ほとんど何もない。
複々線化後 1963年(昭和38年)の空中写真
電車線2本は 東北本線側(写真上側)に作られた。

  1969年(昭和44年)12月: 地下鉄千代田線 開通
■1971年(昭和46年)4月: 西日暮里駅 開業
西日暮里駅開業後 1974年(昭和49年)の空中写真
国土画像情報/国土交通省 CKT-74-15/C24B-7 1974年(昭和49年)
プラットフォームを作るためには幅が必要となり、西側(写真下側)を買収した。何軒もの家が立ち退いている。 道路幅も倍増して、山が削られた。
この結果 東北本線も併せて8本の架道橋が全面的に架け替えられた。
斜めの坂の 生き残り ?

増線前の地図。
考えすぎか? 歩道の分を振っただけのようだ。

 1971年(昭和46年): 東北・上越新幹線 着工

新幹線のための工事中 1979年(昭和54年)の空中写真
今度は東側(写真では上側)を購入して、から南(写真では右)側の東北本線4線を東にずらし、山手線との間にスペースを作ろうとしている。
この時点では東北本線の東側2線の付け替えが終わり、・・・・部にスペースができている。 付け替え部分ではコンクリート擁壁や新しいバラストが白く写っており、それとわかる。 この後さらに2線を移動する。 東北本線の架道橋の桁は、4本とも転用されたが、写真では@が移動済み、これからAが付け替えられる。

線路改修の開始点 (地点) 竣工年 (別の場所のもの)

 線路の西側で、日暮里方向を見ている。

 1982年(昭和57年): 東北・上越新幹線 大宮以北 開通
 1985年(昭和60年): 東北・上越新幹線 上野まで 開通

新幹線開通後 1989年(平成元年)の空中写真
この後、山手線のホームは1両分延長される。

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