山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 日暮里 → 鶯谷

日暮里 駅
橋についての調査をしているので、駅についてはさらりと流したいところだが・・・。
日暮里駅の開業は 1905年(明治38年)4月で、田端ほど古くはないが 歴史のある駅である。 さらには駅の成長 ・変化が激しいこと、構内跨線橋が多いこと、崖地・傾斜地の中間の位置に駅があるために構造が複雑など、一筋縄ではいかない。
北側 コンコース
日暮里駅の不思議
  ・なぜ がきついのか? 
  ・なぜ ホームは3面なのに 12番線まであるのか?
  ・なぜ 錆だらけの古レールが残っているのか?
日暮里駅 跨線橋とホームの構成 
京成  常磐線3・4番      9・10  11・12 ↑鶯谷


跨線橋
 
跨線橋

紅葉坂橋

跨線橋




コンコース




下御隠殿坂橋
                           ↓西日暮里

一般通路である「紅葉坂橋」(人道橋)が駅の真ん中を横切っている。
常磐線や京成電鉄との乗り換え客が多いために、たくさんの跨線橋が作られた。 北から (コンコース)A、 (跨線橋) B、C、D、 と番号が付けられている。


日暮里駅の歴史

明治 大正 昭和 平成 令和
明治初期
~1884年
(明治17)
1885年
~1897年
(M18~30)
1898年
~1907
(M31~40)
1908年
~1912
(M41~45)
1913年
~1921
(T元~10)
1922年
~1930
(T11~S5)
1931年
~1948
(S6~23)
1949年
~1963
(S24~38)
1964年
~1988
(S39~63)
1989年
(平成元)
~現在
 京成電鉄 1931 2009
駅開業 立体化












 常磐線 1905 1928
駅開業 2 / 1 新駅移転 2 / 1
 東北本線 1883 1892 1928 1987
日本鉄道 新駅移転
 上野-熊谷 複線化 JR民営化
線路/ホーム 1 / 通過 2 / 通過 2 / 1? 3 / 1? 4 / 2 4 / 2 通過? 通過 ホーム撤去
 新幹線 1906 1923 1982大宮 1985 1991東京
日本鉄道を国有化 大震災  上野駅乗り入れ
 山手線 ・
 京浜東北線
1903 1919 1925 1949
上野-池袋間 開通 「の」の字運転 環状運転 線路共用 ホーム増設 京浜分離
線路/ホーム 2 / 1 2 / 1 4 / 2
 線路/ホームの合計数 2 / 0 4 / 1? 6 / 3? 6 / 3 8 / 4 10 / 5 12 / 3


 1883年(明治16年): 日本鉄道 上野-熊谷 開通。上野駅、王子駅 開業
日暮里駅部分の線路数: 1
 1885年(明治18年): 日本鉄道 品川-新宿-赤羽 開通
 1892年(明治25年): 上野-赤羽 複線化 日暮里駅部分の線路数: 2
 1896年(明治29年): 田端駅開業、日本鉄道土浦線 田端-土浦 開通
 1903年(明治36年): 日本鉄道豊島線 田端-池袋 開通
■1905年(明治38年)4月: 常磐線 日暮里-三河島間のカーブ短絡線 開通
               日暮里駅 開業 日暮里駅の線路数: 2
 1906年(明治39年): 上野-日暮里 複々線化 日暮里駅の線路数: 4

1909年(明治42年)の地図
旧版一万分の一 上野 /大日本帝国陸地測量部/国土地理院
  に加筆。 以下 同様
  後に下御隠殿坂橋     紅葉坂踏切         芋坂踏切

赤枠内が 現在の駅のおよその位置である。 踏切の名称は仮称。 当時の駅は、随分 北寄りにあったことになる。 入口・改札は東側だろう。 駅舎、駅前広場、郵便局が見受けられる。

1909年(明治42年): 上野-日暮里 5線化 日暮里駅の線路数: 5
1912年(明治45年): 鶯谷駅 開業、日暮里-鶯谷 電車線を複線化
日暮里駅の線路数: 6
1925年(大正14年)部分修正の地図
線路は増えたが 上図とあまり変わりがなく、駅の位置も同じである。

1923年(大正12年)9月1日: 関東大地震

震災時に混雑する 日暮里駅 (田端方向)

『関東大地震震害調査報告書 第二巻 鉄道・軌道之部』1923年/土木学会 より
掲載許可 取得済み
移転前のホームで、火災の被害は受けていない。
ホームは3面。 左:電車線、中央:東北本線、右:常磐線。


1925年(大正14年)3月: 品川-池袋-田端の複々線化 完了
            11月: 山手線 環状運転開始、京浜電車 上野-桜木町
1927年(昭和2年)11月: 上野-日暮里 回送線を加えて7線化
日暮里駅の線路数: 7
駅舎 移転新築
1928年(昭和3年)2月: 京浜電車 赤羽-横浜 開通。京浜東北線に改称
           ?月: 「下御隠殿坂橋」 竣工
1929年(昭和4年)6月: 日暮里-赤羽 間に尾久線(東北線)複線 開通
京成電鉄の開業
1931年(昭和6年): 京成電気軌道(現・京成電鉄)の日暮里駅が開業
             日暮里-上野 回送線を複線化 日暮里駅の線路数: 8

1932年(昭和7年)修正の地図
下御隠殿坂橋      紅葉坂橋         芋坂橋
3つの橋が同時にできている。
日暮里駅の全面移転改築は、1928年(昭和3年)の下御隠殿坂橋 開通に合わせて行われたものと思われる。
駅のホームはすでに4面ありそうだ。 北側にできた構内跨線橋(初代 A)は、下御隠殿坂橋とは完全に離れている。 山側に「西口」ができ、橋に続く斜路との関係がはっきりしないが、平地側の「東口」にできた、四角い大きな建物が駅舎だろう。
押上までだった京成電鉄が日暮里まで開通しているが、駅はまず 下御隠殿坂橋の北側にできた( 印)。

1933年(昭和8年): 京成電気軌道(現・京成電鉄)が上野 まで開通

4本のホーム
1936年(昭和11年)6月11日の空中写真/国土変遷アーカイブより
京成の線路延長に伴って、北側にあった京成日暮里駅がJRと同じ位置に移動している。 京成の線路を通してホームを造るために、下御隠殿坂橋 と紅葉坂橋は改修(延長?)されただろう。 
特に 下御隠殿坂橋から南に下りる「斜路」が、東側(図では上側)に新設され、坂が白く写っている。
4面のホームの西側(写真では下側)に、増線用の敷地が確保されているように見える。 戦争で遅れたとはいえ、この約 30年後に線路が敷かれることになる。
1937年(昭和12年)修正測量の地図
         下御隠殿坂橋     紅葉坂橋         芋坂橋         御隠殿坂橋
前掲の航空写真の 1年後の地図であり、写真のほぼそのままが地図化されている。 5年前の1932年(昭和7年)との違いを比較しやすいように、駅部分を並べてみた。
1932年 1937年


が点滅している斜路(跨線橋から低地に下りる道路)が新設された。 は移転前の京成電鉄のホーム。

1941 ~ 1945年(昭和20年): 太平洋戦争
 
Wikipediaによると、戦前でも 日暮里駅に止まる東北本線はほとんどなく、戦後になると全く止まらなくなった、 との事である。

山手線と京浜東北線の分離
1956年(昭和31年): 電車線を2本増線して、山手線と京浜東北線を分離した。
1956年(昭和31年)修正の地図
地図では見た目に あまり変わりないが、山手線の内側(図では下側)に線路を2本 増やした。 前の地図と較べて、本行寺・にっぽり・天王寺文字のが線路側にはみ出している。 これは、「擁壁」が造られて線路が増設されたにもかかわらず、文字の位置を移動しなかったため、である。 
拡張時に新たに敷地を買収したのか、当初から増線用に確保していたのかは不明である。

 なぜ、 条件の厳しい内側に線路を増やすことにしたのか?
・ 京成電鉄の存在 :
一番の理由は、京成電鉄の施設を駅や線路ごと移設するには、時間と多大な経費が掛かるためである。 さらにその外側の下御隠殿坂橋の斜路も、再度付け替えなければならないので、増線が決まっていたのなら、最後に東側に玉突きで広げる案など、計画するわけがない。
・ 常磐線のカーブ :
もし京成がなかったとしたら、東北本線・常磐線 その他 6本の線路の付け替えをすることになるが、すぐ北側から始まる 常磐線のカーブが更にきつくなることを考慮しなければならない。

山手線の内側に拡張
今から60年前の工事。 擁壁は石垣とコンクリートが交互に配置されている。 土留擁壁 と 乗降場上家 の工事銘板がある。
竣功は 昭和30年(1955年)3月5日。


東北・上越新幹線 の新設に伴う 大改造
1982年(昭和57年): 新幹線の大宮以北が開通
1985年(昭和60年): 上野乗り入れ
1974年(昭和49年)の空中写真
2本の旧東北本線ホーム( 印)を撤去。 線路を東に寄せた。
1989年(平成元年)の空中写真
東北本線 と 電車線の間に、2本の新幹線を新設した。
新幹線は矢印部分で地下にはいり、上野駅を目指している。
この時、まず写真下から二つ目のホーム(9・10番線)上屋の更新、北側の跨線橋(A)の大改造、紅葉坂跨線橋の拡幅と、すでにできていた跨線橋(C)に「南口」の開設、最も南側の跨線橋(D)の新設が行われて、現在の配置となった。

その後の改良工事
2008年(平成20年)3月: 都営「舎人ライナー」が開通し、日暮里駅が開業
2009年(平成21年)6月: 北口コンコースが完成
2009年(平成21年)10月: 京成電鉄日暮里駅の立体化工事が完成
 
大変革の連続であるが、2019年(令和元年)7月現在、西口付近はいまだに工事が継続中である。


 なぜ、 12番線 まであるの?
上記経緯で説明したように、新幹線工事の時に撤去された 東北本線のホーム 2面分が、欠番となっているためである。
1・2  : 京成電鉄 (旧駅)
3・4  : 常磐線
(5~8) : 東北本線 (ホーム無し)
9~12 : 京浜東北線・山手線
京成電鉄 日暮里駅は、以前は ひとつの島式ホームで2番までしかなかった乗り場が、立体化工事によって計3本となった。
そこで、1階の上野方面ホームは「0番線」となっている。
 
京成電鉄 1・2番 ホーム
「3階」の線路は一本だが、1番線(左側)が下りスカイライナー専用で、スーツケースを持った人が多い。 右側 2番線は「その他の」下り電車用 となっており、スーツケースの人はひとりもいない。
前掲の写真のように 「スカイライナーは1番線」と、でかでかとした案内が出ているのだが、 時に、2番線でスカイライナーを待つ人が出てきてしまう。
たとえ直前に気が付いても、もう遅い。 特に前方にいると最悪・・・。 
なぜなら 2番線は下り専用ホームで、上野-日暮里間を利用する人は少ないために、最も上野寄りの一カ所にしか 下りる階段がない・・・・。
よっぽどギリギリでない限り、次の「特急」に乗っても なんとかなるでしょう。


錆びた 古レールによるホームの様子は、次項で説明したい。


駅名 日暮里 の由来

日暮里駅の開業は 1905年(明治38年)である。

現在の日暮里駅は 荒川区と台東区にまたがっているが、明治19年時点では 東京府北豊島郡谷中本村であった。 明治22年に日暮里村に吸収合併され、大字谷中本 となった。

開業時には 日暮里村であったために、谷中の名前は付かなかった。

本来の日暮里村の中心は西日暮里駅付近だったが、そこに駅が設けられたのは半世紀以上後の 1971年。 現日暮里駅に先に名前を取られていたため、本家「日暮里」はやむなく、「西」日暮里 ということになった。
その日暮里は「新堀」に由来する。
新しく作られた掘り割り、あるいは開墾地を表すが、西側の田園地帯ではなく、台地の東側に起こった地名かも知れない。

日暮里村の諏方神社には「新堀」の名がはいった扁額が掛かっている。

「新堀 谷中 総鎮守」、 諏方神社
新堀は通常 「にひほり」、時に「しんぼり」、「にっぽり」と読む地名である。
江戸時代中期には、諏訪台・道灌山が風光明媚な名所となって「日暮らしの里」と呼ばれるようになり、「にっぽり」の音に「日暮里」を充てるようになった。
景色を眺めて「日暮らし」過ごすのなら風流だが、質素な町人・職人たちが「その日 暮らし」をしていたために名付けられた、という可能性もあるのでは・・・。


周辺の情景

付近には古い街並みが残っており、挙げているときりがないが、変貌のスピードも早い。 
 
格子窓の二軒長屋
せっかく頭を縮めてくれましたが、写ってますよ~! 撮影 : 2010.3.3

日暮里のパサージュ 「初音小路」
木造のアーケード。 建物同士に 直接架けてある。 
割と新しいが、少なくとも 昭和30年以前のものだそうだ。

「初音」とは、その年初めての鶯の鳴き声のことで、谷中初音町は1869年(明治2年)に誕生した。
錆び付いた非常ベル。  今でも鳴るか・・・・?

お屋敷跡には マンションが 銅製の郵便受け

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