山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | 日暮里 → 鶯谷 |
1.紅 葉 坂 橋 |
2010.4.19 掲載 2011.9.28 橋の歴史などを追加記載 |
日暮里駅のプラットホームの真上、跨線橋 C のすぐ手前にある人道橋。 初代は 昭和初期に開通した。 正式には 紅葉坂跨線橋 だろう。 |
位 置 (終戦後の様子) |
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院 |
日暮里駅 京成線 言問通り 鶯谷駅 |
全 景 (鶯谷方向 を見る) |
跨線橋 B から鶯谷方向を見ている。 ホームの屋根は橋で分断されている。 |
近 景 (西日暮里方向 を見る) |
跨線橋 C より。 橋の南側の全景は途中に改札口があるので 撮影できない。 |
山手線の内側 から |
橋の幅は 4m ぐらい。 とんがり帽子のある駅舎(改札口)は、新幹線の上部にある。 親柱や橋の名前のプレートはない。 |
南 口 | |
階段横の窓に取り付けられたグリルのデザインは、急流に流される モミジの葉。 |
駅前広場 |
3段の階段を下りると小さなテラスがあるが、こちらは灰皿があり、スモーキングの人たちばかりで煙がひどく、列車ウォッチングはできない。 |
さらに 京成電鉄の方へ | 新設された入口 | ||
|
|||
東日暮里への階段 | 痛んでいる手摺り | ||
|
|
階段下 (京成電鉄の 0番ホームから) |
東側は線路敷きよりも低いことがわかる。 このため階段は長い。 橋の幅が広げられた時に、そっくり造り替えられている。 |
階段の下(山手線の外側)から | トンガリ屋根付きのゲート |
ゲートの上にも 南口のトンガリ屋根のシンボルが付いている。 何か由来があるのだろうか? ゲートの橙色の文字は 「もみじばし」 だがこれは片手落ちで、当然ながら「坂」を付けるべきだろう。 |
||
唯一残る 古レールの橋脚 | ||
山手線の内側、12番線から。 この橋脚が 昭和初期のものなのか、増線時の 1956年(昭和31年)頃のものなのかが はっきりしないが、筆者の推定は 新しいもの。 その根拠は 次の写真。 ▲のところに、プレートを添えて溶接した箇所があることから。 崖は緩やかな斜面だったために、橋は当初からほぼ現在と同じ長さのがあり、継ぎ足したのはほんの 2 m強 と考えられる。 |
||
延長された 橋 | ||
継ぎ足された後に、 広げられた 橋 | ||
レール部分が元の幅で、橋は左側に 約 1m 拡張されている。 拡張と鉄骨による補強は、新幹線工事に伴って行われた。 |
||
拡張された紅葉坂橋 | ||
表面のアスファルトにヒビがはいっている所が、その境目である。 気に留める人は誰もいない。 レール部分の床コンクリートは元のままだろう。 |
||
|
||
9番線から | ||
紅葉坂橋の現在の橋脚は、ほとんどが鋼管、梁はH型鋼である。 これは改修されたもので、以前は 次に登場する「芋坂橋」と同じスタイルの Y字型の橋脚だった。 |
||
切断された 古レール | ||
実は、建設当初の古レールは今でも一部が残っている。 上記で 「崖の橋脚が唯一残されたレール」 と表現したのは不正確だった。 補強工事の時に 「Y字型」の下の部分はすべて取り払われたが、水平部分はそのまま残っている。 使われていたレールの数も6本で、隣の「芋坂橋」とそっくり同じデザインだった可能性が高い。 鉄骨への改修時期は 1974年(昭和54年)から 1979年(昭和54年)の間で、新幹線工事に伴うものである。 |
||
|
位 置 (終戦後の様子) |
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院 |
日暮里駅 京成線 言問通り 鶯谷駅 |
■ 紅葉坂橋 データ | ||||||||
|
位 置: | 台東区谷中七丁目〜荒川区東日暮里五丁目〜荒川区西日暮里二丁目 | ||||||
管理番号: | − | |||||||
道路名: | − | |||||||
橋 長: | 約 90 m | |||||||
幅 員: | 約 4. 3 m、 通路幅: 3. 96 m | |||||||
竣工年: | 初 代: 下御隠殿坂橋と同じ時期と思われるため、1928年(昭和3年)頃と推定 橋脚交換および拡幅工事 : 1970年代後半 |
|||||||
跨ぐ線路: | 4線 : 山手線、京浜東北線 2線 : 新幹線 4線 : 東北本線(宇都宮線、高崎線) 2線 : 常磐線 1線 : 京成電鉄 上り線、 合計 13 線 |
|||||||
く ぐる線路: | 1線 : 京成電鉄 | |||||||
備 考: | JR日暮里駅 南口、京成電鉄 南口がある | |||||||
名前の由来: | 紅葉坂に続く橋 | |||||||
坂名の由来: | 台東区による説明板によると、 | |||||||
周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵橋」ともいった。その命名由来は不詳だが、その名は江戸時代にすでにあった。(筆者要約) | ||||||||
紅 葉 坂 |
夕暮れの紅葉坂 |
比較的緩やかでスロープ付きなので、自転車に乗ったまま下りている。 橋側からはバイクが来た !。 東側の階段(山手線の外側)は 押して登るためのスロープがあるとはいえ、普通の、かなり急な角度があるので、上り下りとも大変なのでは? |
紅葉坂 坂下から | 坂とは反対側 | ||
|
|
||
階段の床に注目! | モミジのマーク | ||
紅葉坂橋 の 歴史 |
天王寺から下りる紅葉坂と 本行寺からの御殿坂が合流した道は、1880年頃に 鉄道が敷かれてから長い間 踏切で東側に渡っていた。 |
1909年(明治42年)の地図 |
旧版一万分の一 上野 /大日本帝国陸地測量部/国土地理院 に加筆 以下 同様 |
後に下御隠殿坂橋 紅葉坂踏切 芋坂踏切 |
赤枠は 現在のおよその日暮里駅の範囲。 踏切の名前は仮称。 |
↓ |
1930年(昭和5年)測量の地図 |
大正末あるいは昭和の初めに現在の場所に駅が移動した時、電車は6両編成だったが、その時すでに 紅葉坂橋はホームの上に架かり、屋根に食い込んでいた。 ▼ が紅葉坂橋。 踏切は廃止され、車は東側に設けられたスロープで登って、「下御隠殿坂橋」経由となった。 この時すでに 7本の線路が敷かれていた。 上から 常磐線、東北本線、回送線(1本)、山手・京浜東北線 である。 | |
| |
その後 1933年(昭和8年)、京成電鉄の上野公園までの延長線敷設で線路の数が増え、東側に延長されたはずだ。 今はそこに京成ホームの屋根があり、上が見えないためにその痕跡ははっきりとしない・・・・。 |
1956年(昭和31年) : 電車線の西側(崖側)への増線 | |
|
1974年(昭和49年)の様子 橋の幅は狭い |
国土交通省/国土画像情報 CKT-74-15/C25-43 より |
1971年(昭和46年) : 東北・上越新幹線 着工 | |
|
↓ |
1979年(昭和54年)の様子 橋の幅が広げられた |
国土交通省/国土画像情報 CKT-79-4/C8B-7 より |
|
1982年(昭和57年) : 東北・上越新幹線 大宮以北 開通 |
1985年(昭和60年) : 東北・上越新幹線 上野駅 乗り入れ |
1989年(平成元年)の空中写真 |
国土交通省/国土画像情報 CKT-89-3/C3-32 |
南口が開設されて、跨線橋と「紅葉坂橋」は現在の姿となっている。 この後、北口の改築、京成電鉄の立体化、舎人ライナーの新設など、大ががりな工事が続く。 |
付近の情景 |
天 王 寺 | ||
|
坂を登った所にあるのが 天王寺。 鎌倉時代からの寺で、元は日蓮宗長耀山感応寺だったものが、徳川幕府の命で 天台宗に改宗され 後に護国山天王寺に改称された。 その広大な境内地のほとんどを都に移管したものが 「谷中霊園」である。 |
谷中霊園 |
西日暮里駅東口の 再開発高層マンションは、どこからでもよく見える。 |
谷中霊園は 日暮里駅の北側から始まり、鶯谷駅との中間当たりまで。 その後は寛永寺の墓地が続く。 |
Top Menu へ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 芋坂橋 へ |