山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 日暮里 → 鶯谷

2.芋 坂 橋
2010.4.27 掲載
2011.9.20 一部の橋脚が造り替えられている原因を推定
2019.8.21 一部の橋脚について 再修正

幕末の彰義隊も駆け下りた「芋坂」。 
東北本線ができて踏切となり、昭和になって人道橋が架けられた。
昭和初期の姿を残す古レールの芸術作品である。

位 置 (終戦後の様子)
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院
   日暮里駅                    京成線  言問通り         鶯谷駅



遠 景 (鶯谷方向 を見る) 2010.4.6
跨線橋 D から。 工事中のスカイ・ツリーも見える。
 
11番線ホームの南端から。

全 景 (西日暮里方向 を見る)
山手線の内側、谷中墓地から。

近 景 (山手線の内側 から) 2010.4.6
芋坂の途中から。 2枚の写真を合成。 手前は遊具が少しだけある平らな公園となっており、犬を連れた人がやって来る。

山手線の内側 から


柵の高さは 約 1. 8m。 オリジナルではない。 当初は 15cm角の鉄筋コンクリート柱に鉄パイプが横2本の昔のスタイルで、痕跡が残っている。 
オリジナルの手摺支柱の跡 参考 御隠殿坂橋の手摺
 
 
山手線の外側は 線路と同じレベル
引き戸がある所が 昔の踏切、すなわち芋坂の位置にあたる。
日暮里駅 常磐線のホームが 橋 間近まで伸びている。

橋脚の姿 と 詳細
約 50cm 間隔でレールがあるので、床版の厚みは薄い。

山手線内側の橋台部分

取り替えられた橋脚
広場部分の二つの橋脚は H形鋼で作り直されている。元はほかと同じ古レールによるもので、Y 字部分がカットされた跡が残っている。
ほかの部分にはY 型が残っていることもあって、新しい橋脚も Y の形の意匠を意識している。
その原因であるが、以前に 「新幹線が真下を通ったため」 と記載していたが それは間違いで、新幹線は線路敷地の下を走っている。

1948年の空中写真を拡大してみると、ここには長屋のような建物が並んでいた。 国鉄の敷地であるため、職員官舎かもしれない。 橋の下にも建物があるように見える。

は架橋以前の踏切の位置。 芋坂がカーブして下りていくが、右側は法面のようで、現在の石垣はなさそうだがはっきりしない。 線路敷きと建物の敷地には レベル差がある。

敷地の隅に「殉職碑」が建っている。 

12名の名があるが、どんな事故なのかは書かれていない。 建立は昭和31年11月、ホームが増設され、山手線と京浜東北線が分離された年である。 それ以前に敷地だけ整備されたとは考えにくい。

以上より、利用目的はわからないが、例えば資材置き場などにするために、2線増線時に線路敷きと同レベルに敷地を下げ、短かった橋脚を作り直したものと考えておく。
 (2019.8.21 訂正)



位 置 (終戦後の様子)
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院
   日暮里駅                    京成線  言問通り         鶯谷駅

芋坂橋 データ


田端-上野間では架道橋や橋に、「坂の名前」を付けるのが決まりとなっている。
 (一部 例外あり)
位 置: 荒川区東日暮里五丁目〜台東区谷中七丁目
管理番号:  −
道路名:  −
橋 長: 約 90 m
幅 員: 約 3 m、  通路幅: 2. 48 m
竣工年: 下御隠殿坂橋と同じ時期と思われるため、1928年(昭和3年)頃と推定
跨ぐ線路: 4線 : 山手線、京浜東北線
2線 : (新幹線 地下)
4線 : 東北本線(宇都宮線、高崎線)
2線 : 常磐線         合計 10 線
備 考: 人道橋
名前の由来: (仮称)芋坂踏切に代わる橋
坂の一部もつながっている。
坂名の由来: 台東区による説明板によると、
「伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因む」という。
荒川区の説明板では、由来は未詳 となっている。


芋 坂

天王寺の参道から分かれて、大きなカーブを描きながら崖を下り、善性寺の門前に至る坂である。

1909年(明治42年)の地図
旧版一万分の一 上野 /大日本帝国陸地測量部/国土地理院 に加筆
以下 同様
後に下御隠殿坂橋 紅葉坂踏切   芋坂踏切      御隠殿坂踏切
は芋坂橋の位置。 踏切の名前は仮称
1930年(昭和5年)測量の地図
一番左の「下御隠殿坂橋」の竣工年は 1928年(昭和3年)である。 この時に、上図の4本の橋と さらに南(図では右)に架かる「寛永寺坂橋」が、同時にできたようだ。

芋坂橋 と 芋坂の山手線の内側部分
芋坂
京成電鉄下り線から 谷中墓地を見ている。
 




踏切跡
橋の途中から

カーブする芋坂


踏切跡、 今は行き止まり。

山手線の内側の様子。 昔の坂は、線路部分では ダラダラと下っていたと思われる。
 

公園側の石垣


2種類の石垣があり ともに古そうに見えるが、戦後に整備されたものと思われる。

 
階段横の石垣 坂の曲がり角に下りてくる階段

ここ一帯も空襲を受けたが、部分的に焼けたようだ。

レンガに焼け焦げた跡はないが、やはり戦災で壊れた塀や石を 再利用したものだろう。 「レンガ石垣」である。

隙間が多いためか、シダやタンポポが生えている。

山手線の外側
京成電鉄の高架下部分で、ここも 緩やかな坂が続いている。


付近の情景

芋坂 といえば・・・

創業は 1819年(文政2年)。店の脇の道が 芋坂。

1868年(慶應4年)5月、徳川家霊廟の警護のために上野の山(寛永寺)に立てこもった彰義隊は、官軍の総攻撃で敗走した。
その何名かが羽二重団子の店に侵入し、武器を遺棄したあと、野良着に着替えて変装して逃げ延びた、という説明板がある。

右の写真は、その遺留品などを店内に展示している様子。
戦災では焼けなかったため、建て替えた新しい店に、昔の店の一部を再現したものである。

そして平成の終わり頃、羽二重ビルは新しいマンションに建て替えられた。 もちろん一階は店舗だが、日本の建物の寿命は なんと短いことか・・・。

谷中墓地の 天王寺駐在所
谷中墓地のメインストリート、昔の天王寺参道である。 都内は交番ばかりなので 「駐在所」は珍しい。

Top Menu へ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 御隠殿坂橋 へ