山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | 日暮里 → 鶯谷 |
3.御 隠 殿 坂 橋 |
2010年4月28日 掲載 2011.1.19 坂の歴史 を修正 2011.9.22 「京成トンネルの地下壕利用」 を再修正 |
谷中霊園の東の端から根岸に下りる坂。 東北本線ができて踏切となり、昭和になって人道橋が架けられた。 芋坂の古レールとは対照的な、コンクリートの橋である。 明治の終わり頃に始まったコンクリートは 大正末には普及して、レンガが使われることはなくなった。 |
位 置 (終戦後の様子) |
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院 |
日暮里駅 京成線 言問通り 鶯谷駅 |
遠 景 (鶯谷方向 を見る) 2010.3.30. |
墓地から。 工事中の新タワーも見える。 |
新 遠 景 (鶯谷方向 を見る) 2011.9.17 |
1年半後の再訪時。 新・スカイライナーと 最高高さとなった スカイツリー。 |
全 景 (山手線の内側から) |
台地側はデザインの違う取り付け陸橋、平地側は階段である。 |
近 景 (山手線の内側から) |
赤い電車は、橋をかすめて走る 京成電鉄。 |
近 景 (西日暮里方向 を見る) |
山手線の内側、谷中墓地から。 たまには 京浜東北線を。 |
京成電鉄下り線の窓から | |
写真を撮るために京成に乗って何回かは往復したが、やはり一発勝負なので、丁度電車が通りかかることは少なかった・・・・。 最近塗り替えられたが、塗装工事は夜中に梯子を架けてやるのだろう。 |
橋は途中で折れまがっている。 まるで、京成電鉄にぶつからないように曲げたみたいだ。 左隣り 今渡った形成の跨線橋が開通するのは、人道橋が開通した5年後の1933年(昭和8年)。 恐らく京成の計画がわかっていて、ぎりぎりの線で設計したのだろう。 芋坂と同じタイプの階段柵は 後からの改修と思われる。 |
山手線の内側 2010.3.30 | |||
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昭和の遺産 |
橋へと向かう | 京成はほんとうに間近! |
山手線の外側 | |
電車を見ていた男の子は 「お願い、 あと一回!」 とおかあさんに頼んでいた。 柵が同じため、雰囲気は芋坂橋の階段とそっくり。 左の写真には カメラを構えて常磐線を待つ中学生たち。 橋にも興味を持ってくださいね、と言っても無理な話か・・・・。 |
位 置 (終戦後の様子) |
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院 |
日暮里駅 京成線 言問通り 鶯谷駅 |
■ 御隠殿坂橋 データ | ||||
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位 置: | 台東区根岸二丁目〜谷中七丁目 | ||
管理番号: | − | |||
道路名: | − | |||
橋 長: | 約 90 m | |||
幅 員: | 約 3. 4 m、 通路幅: 2. 6 m | |||
竣工年: | 下御隠殿坂橋や寛永寺坂橋と同じ時期と思われるため、1928年(昭和3年)頃と推定 | |||
跨ぐ線路: | 4線 : 山手線、京浜東北線 2線 : (新幹線 地下) 4線 : 東北本線(宇都宮線、高崎線) 2線 : 常磐線 合計 10 線 |
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備 考: | 人道橋 | |||
名前の由来: | 御隠殿坂に架かる橋 | |||
坂名の由来: | 「御隠殿」とは、寛永寺の住職 輪王寺宮法新王の別邸で、御隠殿坂は 境内から別邸へ行くための道として、江戸時代に作られた。 | |||
御 隠 殿 坂 |
まさに、御隠殿の敷地に下りて行くために作られた坂である。 現在は、谷中墓地から 王子道に至る道となっている。 鉄道ができた当初は 踏切であった。 |
1921年(大正10年)修正の地図 |
赤点線内が御隠殿の跡 踏切の名前は仮称 |
芋坂踏切 御隠殿坂踏切 寛永寺坂踏切 |
旧版一万分の一 上野/大日本帝国陸地測量部/国土地理院/ 次も同じ |
↓ |
立体交差化される |
1930年(昭和5年)修正の地図 |
中央が「御隠殿坂橋」である。 初めから、途中で折れ曲がった形で架けられている。 | |
日暮里駅の北口にある「下御隠殿坂橋」は1928年(昭和3年)の竣工である。 御隠殿坂橋と同じ「御隠殿」が付いているからといって、それが同時期に作られたという根拠にはならないが、近いと思われる。 デザイン的には次の寛永寺橋と同じなので、両者の竣工時期が近い事を物語っている。 |
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踏切をなくせ | |
この時期、それまで今の位置よりも北側にあった日暮里駅が、現在の位置に4つのホームを持つターミナル駅として移転新築されると共に、田端 - 上野
間の踏切が一斉に立体交差化された。 北から、間之坂架道橋・諏訪坂架道橋・下御隠殿坂橋(新設)・紅葉坂橋・芋坂橋・御隠殿坂橋・寛永寺坂橋・新坂橋・両大師橋(人道橋→陸橋) である。 これは、1925年(大正14年)に山手線が環状運転を始め、貨物輸送中心から始まった鉄道であったが、旅客輸送の重要性が高まり、線路や電車本数の増加が著しくなったためである。 1928年(昭和3年)には、上野-桜木町間の「京浜電車」が赤羽まで延長され、「京浜東北線」と改称されている。 |
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御隠殿坂 (山手線の内側) | |
踏切跡 ↓ | 踏切跡 ↓ |
右の写真よりも 線路に近づいた位置から。 |
旧 踏切の場所。 | |
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オリジナルの形は どうだったのか? |
昭和初期に橋が完成した時の、橋をくぐる線路の数は以下の7線だった。 常磐線 2線、東北本線 3線、山手線・京浜東北線共用 2線 3年後の 1931年(昭和6年)に回送線が1線増やされた。 この状態では、橋のスパンの数は4つあれば済む。 前掲の地図でも線路の数は複線が3本、単線が1本 の7線が表現されている。 そこで、初期の状態は次の二つが考えられる。 ・ 初めは橋本体は1スパン短い4スパンで、取り付け部分が長かった。 ・ 初めから 5スパンで作られ、後から 柱や桁の増設はなかった。 戦争を挟んだために その後の25年間は計8線であったが、戦後の高度経済成長期が始まった、1956年(昭和31年)に ようやく電車線が2線増設されて、田端-田町間の山手線と京浜東北線が分離された。 この時、御隠殿坂橋付近では 山手線の内側に増線されたことはわかっているのだが、増線後の地図を見ても 疑問の答えは出ない。 |
1956年(昭和31年)修正 の地図 |
新版一万分の一 上野/ 地理調査所 |
線路際の地形は整備されているが、線路の数は4本(8線)のままなのである。 地図の表現では、見た目に分かり易くするために実際よりも道路を広くしたりする。 鉄道の場合も同じで、ここでは5本(10線)を表現できなかったためであろう。 |
現在の 取り付け部分 | 現在の 橋の本体 |
2線増線部分 |
筆者の推定 |
当初から現在の形 5スパン 10線分 の橋が架けられていた。 |
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証 拠 写 真 | |
1936年(昭和11年)6月11日の空中写真/国土変遷アーカイブより | |
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それでは 増線部分の桁は オリジナルか? |
← 増線部分 → |
橋脚 A 橋脚 B 橋脚 C |
A B間の桁は、一見した所 ほかの部分と同じに見える。 しかし、答えは 「ノー」である。 なにせ 増線でさえ半世紀も前のことなので、その 更に30年前の元の橋と一体化しているのだ。 その証拠は終戦後の写真。 |
1948年(昭和23年)の空中写真 |
敗戦から3年近く経っているのに、まだ桁が撤去されたままだ。 つまり現在の桁は戦後に架けられたもの となる。 では なぜここの桁が取り外されたか? 終戦間際に、山手線経由で京成電鉄トンネル内に客車を引き込み、運輸省の司令室として使う計画が実行されたためである。 これについては 後半の「トピックス」で取り上げる。 |
「新しい桁」の検証 |
取り外された最後のスパン、その桁をほかと較べてみると、確かに違いがある事がわかる。 まずは、橋脚上部の四角い装飾部分に注目。 |
橋脚 A | 橋脚 B |
同じ場所から撮影したために 幅が違って見えるが、明らかに、仕上がり具合が違う。 A が新しく、きれいである。 ただし、既存の親柱を 新しく仕上げ直した可能性もある。 次は橋の内側から桁を見る。 |
橋脚 C (左右共に古い オリジナル部分) | 橋脚 B (右が再架橋部) |
古い部分 ↑ 新しい部分 手摺りを兼ねた桁はプレキャスト・コンクリートのようだ。 柱の上に 分割した桁を載せている。 |
↑昭和初めの部分は双方の継ぎ目がきれいで、両側とも同じ形 ・同じテクスチャーである。 ところが、増築部分は境目(継ぎ目)が不揃い。↑ そしてよく見ると、新旧で骨材(豆砂利)のサイズが、かなり違う。 |
昭和初期のオリジナル 戦後の復旧部分 今後 丁寧な塗装が行われると、わからなくなりそうだ。 |
トピックス 京成トンネルの地下壕利用 |
2011.1.19 修正 / 2011.9.22 再修正 / 2019.7.9 部分修正 |
「戦争の影響」が 直接 山手線や京成電鉄に降りかかった事実として取り上げたい。 初めは「トンネルに引き込み」という言葉にとらわれすぎて、山手線もトンネルで繋いだものと思いこんでしまい、間違った記述を載せてしまった。 京成線が地下にはいる前に繋げばよい と気が付いて、なぜ御隠殿橋のワンスパンが取り外されたのかという疑問が氷解した。 |
ここには、橋と同じぐらいの高さの「土手」が築かれていたのである。 |
地下壕利用については Wikipediaの京成電鉄の項だけでなく、『1分停車 山手線』 原田勝正 でも取り上げられているが、詳しくは書かれていない。 |
1945年(昭和20年)6月10日 : 京成電鉄、日暮里 - 上野公園運転休止。 運輸省を疎開させ、トンネルを地下指令室とするためにとして接収した。 |
京成線への接続ルート |
日暮里駅南端 芋坂橋 御隠殿坂橋 トンネルへ↓ |
写真の撮影は終戦3年後の 1948年(昭和23年)で、京成電鉄はすでに上下線とも復旧している。 (上り線の先行使用開始は1945年10月) 引き込みに利用したのは、現在 京浜東北線北行きと山手線内回りが走っている「増線予定」部分であった。 芋坂橋は壊されなかったので、登り傾斜が始まるのは芋坂橋以南である。 ただし その北側も引き込みスペースとして使われた気配がある。 判断基準は・・・・部分の「土(バラスト)の色」である。 ▲▲間は色が真っ白で現状復帰工事が終わって間もないことを示している。 一方 ▼▼間は白くはないが、現役の線路よりは灰色がかっており、最近,何らかの工事が行われたように見える。 単線であるから、寛永寺の敷地(写真下側)はほとんど使わずに済んだと思われる。 それでも、超突貫工事で石垣を積んでいるヒマはないから、京成線付近の土手の法面は大きくなっただろう。 |
前掲写真の部分拡大 |
接続ルートのイメージ |
御隠殿坂橋から。 橋を過ぎて右へと急カーブを切っていた。 当時はまだ、右の2線は敷かれていなかった。 |
接続位置手前部分 の現状 (突き当たり) | |
左側 間近に京成線線路が見える。 正面石垣の上まで登ってしまうと京成線よりも高くなってしまうので、正面の石垣は一度撤去され、原状回復のために積み直されたように見える。 石は寄せ集めで、仕上り状態が非常に悪い。 |
そして 前掲写真の反対側を訪ねてみると、ありました。 石垣を崩した後に、コンクリートの低い擁壁が造られた部分。 ▼ ▼の部分である。 |
写っているのは下り電車。 トンネル内から上り勾配を続け、カーブの奥に見える跨線橋を渡り終えると、下り勾配となる。 中央の▼から手前が1933年(昭和8年)竣工の古い石垣である。 |
現場付近を走る 新 スカイライナー | ||
▼ |
山手線からの引き込み線は中央奥から登ってくる。 京成線の下り線(写真の左側)に繋いだという話もあるが、右側の上り線の方がカーブが緩くてすむ。 京成線はJR跨線橋からトンネルに向けて下り勾配となっているので、現状のまま接続するのは難しい。 「分岐線」にする必要は無いので、最後の部分は京成線部分の線路を外して整地してから接続したそうだ。 これは、復旧後の京成線の線路路盤が跨線橋の最後の部分から上野方向に、一部白くなっている事からも推定される。(次の写真で ▼より下側) |
現状復帰工事で造られた擁壁 (複数枚の写真を合成) |
接続に当たっては 京成線と山手線のレール幅が違うが、新たに1本足せば済む。 次の写真は、田端大橋の北側にある 3線軌道の様子。 |
3 線 軌道 |
3線軌道 : 新幹線と在来線を共用するため。 |
すっかり 京成電鉄の話題になってしまったが、「京成電鉄跨線橋」は次項で。 |
橋からの眺め ・付近の情景 |
京成電鉄 跨線橋 (鶯谷方向) |
目の細かいネット |
コンクリートの手摺りには高いネット・フェンスが付け足されているが、そのネットのサイズが小さ目である。 |
初めは 画面の片隅にネットの一部が掛かった状態で写真を撮っていたが、有り難いことに? すぐに「穴」があることに気が付いた。 |
鉄道ファンが ペンチ持参とは! |
徳川慶喜の墓 |
御隠殿坂を上って少し行くと 慶喜の墓がある。 徳川歴代将軍の墓は、ここ寛永寺と芝増上寺にある。 増上寺では特別の日に一般公開しているが、寛永寺の他の将軍の墓所は石垣に囲まれており、慶喜以外の墓を見ることはできない。 |
左が 慶喜、右は正室 美賀の墓。 顕彰会が建てた「顕彰碑」が邪魔だ。 増上寺や寛永寺の徳川家の霊廟には入らずに、神道の形式の墓にすることは、慶喜自身の遺言であった。 | ||||
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