山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | 鶯谷 → 上野 |
鶯 谷 駅 |
鶯谷駅の開業は 1912 年(明治 45 年)7月。 1908年(明治41年)に鉄道院が設置され、後藤新平が総裁となる。 1910年(明治43年)には 有楽町、高田馬場、駒込、1912年に鶯谷。 1914年(大正3年)には東京駅、新大久保、新しい新橋駅舎 と、次々に駅が増えていった時期である。 |
南口駅舎 |
上野側 から 日暮里方向を見ている。 |
初代の駅舎は少し先の左側で、地上駅だった。 現在の駅舎は二代目だが、特筆すべきは線路の上に建てた駅舎 であること。 今では駅の上にビルが建つのは当たり前だが、90年以上前に建てられたこの駅舎は、その先駆けと言えるものである。 |
鶯谷駅の不思議 |
・なぜ この時代に 線路の上に駅舎を建てたのか? ・ターミナル駅でもないのに なぜ「二連」のホームなのか? ・なぜ そのホームが田端駅と 同じデザインなのか? |
鶯谷駅の歴史 |
■ 1912年(明治45年) 鶯谷駅 開業 |
1925年(大正14年)修正の地図 |
旧版一万分の一 上野/大日本帝国陸地測量部/国土地理院 |
寛永寺坂踏切 新坂踏切 |
常磐線、東北線、電車線 各2線、計6線の状態。 |
(地図では複線以上の記号が 2本のみ) |
図では、駅の四角い記号の下にある 小さな黒い長方形▲が駅舎のようだ。 平地側は線路が多く レベルも低くなっているため、電車線の駅舎は、開業当初から台地側の狭い敷地にあり、「新坂踏切」の横から駅に通じる道があった。 山手線が2両編成の時代である。 |
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↓ 5年後の姿 | ||
高架駅舎の誕生 | ||
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『タイムスリップ山手線』によると、新駅の誕生は1927年(昭和2年)である。 線路の数は、昭和の初めに回送線が1線増えただけだが、地図上ではもっと増えたように見える。 踏切の立体交差化と 新しい鶯谷駅舎が作られて、線形が主に 平地側(図では上側)に膨らんでいる。 |
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なぜ 線路の上に駅舎 ? | |
台地側に広げられない理由は? 徳川将軍の墓地があるためだ。 |
1930年 上図の拡大図 |
切り通しだった「新坂」を埋め戻し、現在の京浜東北線北行き線路・・・の上に人工地盤を設け、なんとか新しい「南口」▲を作った。 |
戦後すぐの南口 | ||
北 | 南 | |
1948年(昭和23年)3月29日の空中写真、写真サイズ 400×193 |
前掲の地図 1930年(昭和5年)からは 18年後の姿。 ほぼ正方形の駅舎が現在と同じであることは、Googleの写真を見れば確認できる。 右端に北行きの電車が写っており、これから駅舎の下・・・をく ぐるところ。 |
前掲地図の北側に注目すると、三島社横に駅舎らしき四角い建物と小さな広場、それにホームの古レールの状態を考え合わせると、「北口」▼もすでにこの時にできたようだ。 ホームは2面で、90年以上も前に現在の形ができていたわけである。 |
現在の 北口 | |
重要確認事項 |
終戦後 1948年(昭和23年)3月29日の空中写真 | ||
写真サイズ 400×168 |
ホームの中央部分にはまだ線路がない。 (次の写真の ▼ 部分) |
同上写真の 部分拡大 | ||
写真サイズ 400×249 |
▼ が2本の線路で、外回りには 丁度 6両編成の電車が写っている。 結局、早くにホームを2面作ったが、使っていたのは両側だけ、ということだ。 白い屋根の北口駅舎もはっきりと写っている。 2線の電車線が 4線になり、山手線と京浜東北線が分離されるのは、さらに 8年後の、1956年(昭和31年)である。 |
1955年の石垣 2019.8.23 | |
その分離に向けた工事で造られた石垣。 山手線内側の寛永寺墓地下。 前掲写真では、この石垣が有るかどうかの詳細は不明だが、銘板によって、戦後に整備されたことがわかる。 典型的な「谷積み」でホーム全域に亘る。 しかし南口付近の石垣は、昭和初期の新駅の建設時に造られたものが、そのまま使われているのではないかと考えている。 |
なぜ 田端と同じデザイン ? | |||
鶯 谷 駅 2010.4.8 | |||
田端との違いは、頂部が三角で リングに大小がある、ピッチが粗い。 | |||
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山手線 と 京浜東北線 |
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山手線が環状運転を始めた 1925年(大正14年)時点では、京浜電車は上野止まりだった。 それが赤羽まで延び、名称が京浜東北線と改められたのが 28年(昭和3年)。 この年を目差して、多くの踏切が橋や架道橋にされた。 しかし、当時から戦争を挟んで 1956年(昭和31年)までの28年間は、山手線と京浜東北線が同じ線路を共用しており、日暮里駅でも電車線のホームはひとつだった。 それなのに、鶯谷駅は早くに2本のホームが作られた。 |
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共用線路のまま田端で単純に分岐すると、山手線外回りと京浜東北線北行きが平面交差するため、運行電車の本数が制限される。 これを解消するには 「線路の乗り越し」が必要となる。 |
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その前提として 国鉄がこだわったのが「方向別配線」である。 | |||
田端駅から品川まで(実際には田町まで)、相互の乗り換えが便利なように、2つのホームのそれぞれに同じ向きの電車を走らせるのことを、「方向別配線」と呼んでいるが、国鉄は昭和初期の段階でこれを計画し、そのために、田端駅の北側で山手線が京浜東北線を乗り越す形とした。 (田端駅の項 参照) | |||
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残念ながら、新鶯谷駅も 新田端駅も、竣工年が特定できていない。 地図の変化からは、新鶯谷駅の建設は 1925年(大正14年)から 1930年(昭和5年)の間であり、新田端駅も同様である。 日暮里駅北側の「下御隠殿坂橋」や「寛永寺坂橋」の竣工が1928年(昭和3年)であるところから、鶯谷駅 新ホームと南口 ・北口、および新坂橋の完成も 同じ時期と考えられる。 『タイムスリップ山手線』によると、新鶯谷駅の誕生は1927年(昭和2年)である。 いずれにせよ、大正末から昭和の初めにかけて、田端・日暮里・鶯谷の新しいホームが完成した。 日暮里駅は4本のホームがあり、線路の間に柱を立てるデザインで作られた。 田端と鶯谷はホームに柱を立て、2面のホームをつなぐデザインで作られた。 |
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なぜ 2連か ? | |||
2連とは、「2面のホームの屋根構造がつながっている」 ということで、開業当初は電車線が2線しかなかったのであるから、本来ホームは1面で済むのに、早くに2面のホームを同時に作った。 ということへの疑問である。 | |||
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以下は 推論 だが、当然ながら増築スペースの確保だけでもよかったはずである ・・・ 。 |
国鉄は、大正の終わりの時期には ・ 山手、京浜東北 の分離 ・ 方向別配線 の ふたつの基本方針を決めていた。 しかし、第二次世界大戦の影響でその実現は大幅に遅れて、30年後になってしまった。 鶯谷駅のホームを初めから2面作った理由は、 ・ 徳川家の墓地の関係で、後から台地側には拡張できない事は明白。 ・ 2つ目のホームを 後から平地側に増設するためには、常磐・東北 など多数の線路の移動が生じる。 だったら、初めから2面のホームを確保しておこう! |
駅の南側 (山側) | 駅の北側 (平地側) | |
徳川の墓 鶯谷駅南口↓ | 鶯谷駅ホーム 東北本線・常磐線 | |
駅名 鶯谷 の由来 |
1912年(明治45年)に駅ができた時の地名は、下谷区桜木町。 付近には「谷」もない・・・・。 東京駅も地名ではないのだが、それ以外では唯一 駅名として、地名が採用されなかった駅である。 鶯谷の由来としてあげられている説には、 ・ 日暮里駅に近い「霊梅院」付近の谷に鶯がいた ・ 御隠殿坂橋の先の音無川に架かっていた橋、 水鶏(クイナ)橋 が 「鶯橋」と改名された などがあるが、いずれも駅からは離れた場所であり、橋の改名も鶯が人気となった後からのものである。 なお、 霊梅院付近には鶯谷の地名から発生したと思われる「谷中初音町」があった。 「根岸」や「金杉」ではなく「鶯谷」を採用したのは、聞こえの良い名前にこだわった、担当者の選択か? | |
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鶯谷駅南口を出て右に行けば 桜の名所「上野公園」。 北口を出て、寛永寺坂橋を渡れば 「上野桜木町」。 桜木町駅 の名は、横浜よりも上野がふさわしい。 横浜の「桜木町駅」ができたのは鉄道史で最も古い 1872年(明治5年)である。 ただし、日本初の鉄道、品川 - 横浜間の 「横浜駅」として開業しており、現在の桜木町駅に改名されたのは、1915年(大正4年)のこと。 現在の二代目「横浜駅」が別の場所に開業したためである。 1912年、明治生まれの鶯谷駅が、先に桜木町を名乗れた可能性はあったと思われるが・・・・? |
周辺の情景 |
鶯 谷 駅 |
山手線の外側は名だたるホテル街。 内側は寛永寺の墓地。 |
鶯谷駅を挟んで、生(性) と 死 が向かい合っている・・・・。 |
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