山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 鶯谷 → 上野

1.新 坂 橋

しんざかばし。 江戸時代の台地の上は寛永寺領であり、上から下に下りて行く必要性が無かったために、明治になって新しく坂道ができた。
上野公園側から鶯谷駅南口をとおって、根岸・下谷方面に下りる坂である。
鉄道が敷かれた当初は 坂を下りて踏切だったが、立体交差化のために埋め戻されて掛けられたのが新坂橋である。

JRでは、田端-上野間の決まり事に則って「新坂跨線橋」と呼んでいるが、付近の地図では凌雲橋(りょううんばし)となっている。

遠 景 (鶯谷方向 を見る)
            鶯谷駅 南口↓

下の道路から (山手線の外側から)
手前の1本は上野駅からの引き上げ線。 線路敷は平地方向に向かって4段にわたって低くなっており、橋も斜めに掛けられている。
 
下の道路からの近景
緑に塗装された鉄骨部分は、1966年(昭和41年)に両側に追加された歩道である。 橋の本体はコンクリート。
 
鶯谷駅の跨線橋から
右が鶯谷駅南口駅舎。  線路の合計は 13線。
 
鶯谷駅南口 と 新坂橋
駅前はタクシー乗り場となっている。

山手線の内側から



 

両側に鉄骨の歩道があり、結局、橋本体の側面は見えない。
橋本体 道路部分 中間の柱

 
橋のたもと 北側に下りる斜路

 


←もとからある親柱。橋名はない。
 歩道には階段しかないので、自転車は車道を走る↑
歩道の終点の階段

長い斜路
斜路を下り切ると言問通りである。

新坂橋 データ


田端-上野間では架道橋や橋に、「坂の名前」を付けるのが決まりとなっている。
 (一部 例外あり)
位 置: 台東区上野七丁目
台東区上野公園〜根岸一丁目
管理番号:  −
道路名:
橋 長:
幅 員: 約 7m + 歩道 各 2m
竣工年: 1928年(昭和3年) 頃
下御隠殿坂橋と同じ時期と推定
歩道の追加 : 桁の銘板:1966年(昭和41年)
跨ぐ線路: 4線 : 山手線、京浜東北線
4線 : 東北本線(宇都宮線、高崎線)
4線 : 常磐線
1線 : 引き上げ線       合計 13線
備 考: 地図に凌雲橋(りょううんばし)となっている
名前の由来: (仮称)新坂踏切 に代わる橋
坂名の由来: 明治になって新しくできた坂
凌雲橋の 明治初期に、現在の西洋美術館の敷地にあった、寛永寺の塔頭(子院)「凌雲院」の名にちなむものと思われる。
由来:


新坂 と 新坂橋 の歴史

上野の山全体が寛永寺領地であった江戸時代は、そこから北の田圃に下りて行く 道の必要性がなかった。 
特に付近は徳川将軍家の霊廟があり、領地の中でも奥まった場所だった。
しかし 幕末の彰義隊と新政府軍との上野戦争で、寛永寺の本坊などは焼けてしまった。

坂の出現
1872年(明治5年) : 湯島聖堂で最初の博覧会 開催
1873年(明治6年) : 日本初の公園に指定される
1877年(明治10年) : 寛永寺本坊跡地で 第一回内国勧業博覧会 開催

坂の出現  1878年(明治11年)6月 測量

実測 東京全図 / 地理局地誌課
が将来の新坂橋の位置。 公共施設が建つことになった上野公園へのアプローチ道路が必要となり、道の無かった北側に「新坂」 @ が作られた(カーソルを乗せると表示)。 地図ではまだ崖に切り通しができただけで、要伝寺 A(現在の言問通り)までつながっていない。 
・・・・・ は、5年後にできる鉄道の およその位置。
 
1881年(明治14年) : 博物館のレンガ造の本館が完成 (大震災で損壊)
1882年(明治15年)3月 : 国立博物館 開館

1883年(明治16年) : 日本鉄道 上野-熊谷間 開通
踏切の出現  1887年(明治20年)測量

五千分の一実測図 複製版  五幀 / 元版 内務省地理局

1912年(明治45年) : 鶯谷駅 開業
鶯谷駅  1916年(大正5年)修正の地図
駅舎は初めから山側だったようだ。
(仮称)新坂踏切には、踏切の横に「人道橋」が架けられている。

1925年(大正14年) : 山手線の環状運転が始まる
1928年(昭和3年) : 京浜東北線が 横浜-赤羽間まで 延長
 
架道橋ができる
この時期に付近の踏切が一斉に立体交差化された。

1930年(昭和5年)測量の地図

新坂の切り通しも埋め立てられ、山際に作られた人工地盤の上に、南口駅舎と駅前広場ができた。

橋の形は「寛永寺橋」とほぼ同じであり、平地側には長い斜路がある。
ただ、新坂橋では線路レベルが東側ほど低くなっいているので、それに合わせても斜めに架けられた。

大正の終わりから昭和の初めに架けられた橋のままだとすると、80年もの年月が経っていることになる。 当時のコンクリートの性能ではそんなには持たないはずなので、一度架け替えられているのではないかと思うが、詳細は不明である。
もし昔のままなのであれば、寛永寺坂橋とともに早急に架け替えるべきだが、両方とも仮設橋の位置を確保しにくいため、簡単ではない。

新 坂

坂下、 橋の手前から
左側 忍岡中学校、右側は寛永寺の墓地。

初めに踏切だった時は、あと5・6m低いレベルだった。
坂の奥の方の勾配のまま、どんどん下っていたのだろう。
坂上の交差点、 山手線の内側から
交通量は極めて少ない道である。

付近の情景

客待ちタクシー
かつてこの道は、南口で客を拾うタクシーが列をなしていた。
1984年(昭和59年)の様子
国土画像情報/国土交通省 CKT-84-3/C9
交通量が少ないとはいえ、道路の片側が占拠されている状態である。

そこで、墓地前の道が広くなっている部分が待ちスペースとして整備された。 100mほど離れた駅前には3台しか停車せず、車がはけると順に発信していく。 
見通しはきかないのだが、その仕組みは・・・。

             TVカメラ ↓ ディスプレイ ↓


単純な仕組みであった。
ケーブルは歩道に埋めてある。

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