山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −


高架橋の名称について
これから続く下町の高架橋や架道橋の中には、「橋」が重複している名称がある。 特に、高架橋 と 架道橋に同じ名前が使われている場合に多く、
例えば 五條町の場合、

  高架橋は、五條町橋 + 高架橋
  架道橋は、五條 + 架道橋   である。

下谷町高架橋の場合は「橋」が付いておらず、違和感はない。


上野 → 御徒町
4. 下谷町 高架橋

終戦後 1948年(昭和23年)の様子












 五条橋架道橋         下谷町高架橋       忍川橋架道橋
国土地理院
大きく 3つのブロックに分かれているので、内側から A B C とするが、C部分は下谷町高架橋で途切れている。(印)

つまり戦前に高架橋が 3ブロッくあったのはここまでで、C部分の2本の線路はB部分に合流し、その先は5線となっている。

1928年(昭和3年)に上野新駅に4本の高架ホームが完成した当時、常磐線を東京駅まで乗り入れる計画があったのだが、東京駅のホーム数が足りないなどの理由で立ち消えとなった。
結局5線のうち、内側の2線が電車線、残りの3本は常磐線の引き上げ線として使われた。
上野 - 東京間がすべて6線となったのは、1956年(昭和31年)の山手線・京浜東北線完全分離の時である。

なお 常磐線の東京駅乗り入れ計画は、80年の時を経て、「東北縦貫線計画」として現在進行中である。


A 部分 建造時期:1924年(大正13年)頃
アメ横通りの様子
左:A部分  中央の再開発された三角地帯、アメ横センターに面している。
 
A 部分 近景
斜めに傾斜の付いた短い「片持ち梁」が付いている。
このデザインは B部分も 同じ。

名称ラベル 照明には 「A」 のマーク

アメ横の 「A」 であろう。

途中にある横断通路
天井が張られた広い通路があり、見たところは A から C部分までつながっている。  汚かった五條町橋高架橋とは 大違い。
 

C 部分
 建造時期:不明、昭和初めか?
山手線の外側 から
A とはデザインも違うので、別の時期に作られたのかとも思うのだが、架かっている架道橋、例えば「五條橋架道橋」の製造銘板を見ると昭和3年で、Aの大正末とは離れていない。

下谷町高架橋 C部分の特徴は誰でもはいれる「2階レベル」である。 
オープンな階段があり、きれいなトイレまで整備されていた。

御徒町駅前通から出入りできる 階段

倉庫として使われているようだ トイレ

左がC部分、通路は中間地帯、右がB部分。
Bには柱の上部にハンチ付きの片持ち梁。
奥の扉の向こうは、隣の区画への渡り廊下だ。

照明も明るく 清潔。

通路の天井裏
渡り廊下から見た 天井裏。 2階部分は全く使っていないので、がらんどう。

下谷町 高架橋

位 置: 台東区上野六丁目
  東京駅より 3K 333M 71
管理番号:   −
線路の数: 計 7 線 (下記 ABC は仮の呼び名)
A: 3線: 京浜東北線北行き、山手線 2本
B: 2線: 京浜東北線南行き、
      常磐線引き上げ線
C: 2線: 常磐線引き上げ線
      現在は縦貫線のため一部の線路は
      取り外されている。
橋 長: 約 140 m
橋脚の数: 26本、 平均スパン:5.6 m(約 6ヤード)
竣工年:
(桁の製作年)
A: 1924(大正13)年頃
B: 1928(昭和3)年頃
C: 1928(昭和3)年頃? 未確認
備 考:
                     上野駅
1921年(大正10年)修正の地図/国土地理
名前の由来:  建設当時の町名による
地名の由来: 上野台地と本郷台地の間にあるのが「谷中」、上野台地の南側を「下谷」としたものであろう。

地図で見るように、昔の下谷町は上野駅の南側であり、そこを通る高架橋の名前として残っている。


現在、この辺り一帯はすべて「上野」でくくられてしまっている。
旧区名であった「下谷」を残したかったのかも知れないが、現在の「台東区下谷」は鶯谷駅の東側、旧坂本町・入谷町だったところ。

こんな無茶な命名には本当に呆れる!
高架線敷設前の状態で、南に延びている線路は地上を走っていた貨物線。

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