山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

上野 → 御徒町
5. 忍川橋 架道橋

アメ屋横町の中心部。
直交する通りの幅も広く 架道橋の長さも長いのだが、例によって橋の下の両側ともに店舗が張り出している。 平日は車が通れるようだ。


終戦後の様子
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院













     忍川橋架道橋               春日通り  御徒町駅

最近の様子
1989年(平成元年)空中写真/国土交通省国土画像情報 CKT-89-3
     忍川橋架道橋               御徒町駅 ホーム2本


遠 景 (山手線の内側から)

近 景 (山手線の内側から)

全 景 (山手線の外側から)

近 景 (山手線の外側から)

架道橋の名称板
やはり、遥か上にある。

忍川橋 架道橋 データ


『東京市街高架線 東京上野間建設概要』
鉄道省(1925年/大正14年)には、五條橋から佐久間橋までの8本の橋を、同じ寸法で発注したことが記載されている。

「架道橋は全部版桁(注:プレートガーダ)を架設し、径間は呉服橋柳原通橋間に於いては、市区改正道路の幅員に倣ひ、佐久間橋 五條橋間は練塀橋を除き、道路幅員全部63呎(注:フィート)以下なるを以て、設計の手間を省き且つ経済上より、支間66呎(注: 20.117m)のものを一様に用いたり。」
位 置: 台東区上野六丁目〜上野四丁目
  東京駅より 3K 184M 09
管理番号:   36 (東北線)
道路名:  −
線路の数: 計 7 本 (下記 ABC は仮の呼び名)
A: 3本: 京浜東北線北行き、山手線 2本
B: 2本: 京浜東北線南行き、
      常磐線引き上げ線
C: 2本: 現在は縦貫線のための工事中で
      線路が外されている
支 間: 20m 120
空 頭: 高さ制限 : 表示無し
竣工年:
(桁の製作年)
A: 1924年(大正13年)
B: 不明
C: 不明
備 考: 塗装履歴によるガードの支間は 五條橋、忍川橋、次の魔利支天橋、御徒町駅の切通橋の4本が、ともに 20m 12cmである。(左記 参照)
 
名前の由来: もと忍川が流れていた場所である事に由来するが、そこに架かっていた橋の名が「忍川橋」だったかどうかは確認できていない。

ガードそのものの旧名が「忍川橋」で、あとから「架道橋」を付け足したために現在の名称となっている。


山手線敷設前の様子
1883年(明治16年)測量/1986年発行/参謀本部陸軍部測量局
上野 駅舎












藍染川




















忍川
1890年(明治23年)に、印の右側を貨物線(地上)が横断し、踏切ができていた。(下図 左)  その後同じ位置で高架化されている。(下図 右)

忍川橋の名が付く橋があったとしたら、印か もう一つ上流、三橋の並びの橋であろう。
 

染井墓地の長池を水源として、途中 様々な名前で呼ばれながら流れる藍染川は、不忍池に注ぐと共に池の西側・南側をぐるりと廻っていた。
その流れは、池の東南から流れ出す「忍川」と合流して三橋をくぐり、隅田川に注いでいる。

1921年(大正10年) 1956年(昭和31年)


付近の情景

み は し
上野の甘味処として有名な「みはし」の店名の由来。
広小路を横切る忍川に架かっていた「三橋」にちなんでいる。

1883年(明治16年)の地図の中央に載っている。
広小路の中央にある大きな橋は V I P専用で、両脇のふたつの橋が普段の通行に使われた橋である。三つの橋があったので 三橋。

徳川家光に重んじられて寛永寺の領地が拡大され、五代将軍綱吉の時には現在の上野公園に大伽藍が作られた。
その落慶式に将軍や京都の勅使を迎えるにあたって、三橋が作られたという。

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