山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

御徒町 → 秋葉原
6. - 2 第 1御徒町 高架橋 C 部分
2010年9月1日 掲載
                                                    撮影:2010.7.27

関心がないということは恐ろしいことで、以前何度か、この高架橋横のパソコンショップに買い物に来たことがあるのだが、まったく 気が付かなかった。

梁の無い、フラットスラブ構造である。 この列柱を見たとたん、ガウディのグエル公園を思い出したが 構造的にはまったく違う。

グエル公園テラス バルセロナ
写真は Wikipedia より
また 学生時代に見た、村野藤吾の「宇部市民会館」(渡辺翁記念会館) 1937年(昭和12年)のエントランスホールにも、似たデザインの柱があった。
宇部市民会館 撮影 : 1972年


位 置 (終戦後の様子)
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院




(C)





(C)

 春日通り  御徒町駅                                   蔵前橋通り
高架橋の A・B・Cは仮称である。 御徒町駅では最初のホームが6両編成対応の長さのままであり、2本目のホームは、まだ作られていない。

上野の「忍川橋架道橋」以南で施工されていなかった「C部分」(山手線の外側)が、秋葉原貨物駅に向けて線路数が増えていくために作られている。

トップに掲げたフラットスラブ構造の部分は、紫の B・C の範囲 である。


C 部分 竣工時期: 1930年(昭和5年)6月 

C 部分 (山手線の外側から)

第1御徒町ガード↑

奥に第1御徒町ガード      長者橋架道橋↑
御徒町駅から南下する。  長者橋架道橋を過ぎると第1御徒町高架橋となるが、始めは これまでと同じ柱・梁タイプの高架橋である。

さらに、第1御徒町ガードを過ぎて 5スパンはラーメン構造だが、そのあと6本目の柱から フラットスラブに変わる。 その途中で縁は切れていない。

それぞれ、左が無梁構造、右が柱・梁構造の 柱
↑左の端に フラットスラブ用の「台座」が見える。床版は連続。
↑白い建物は先行して開設された アンテナ工房。 そのど真ん中に柱がある。
 
 なぜ、フラットスラブが採用されたか?

フラットスラブ(平らな床:梁が無い)構造は 単純な柱・梁構造に較べて「円形・漏斗状の型枠」を作成するのに手間が掛かるため、現在では非常に割高となる。
それが採用された最大の要因は、三味線のバチのような 緩くカーブしながら次第に広がる高架線の形であろう。 梁を鋭角に架けるためには、柱を太くしないと鉄筋同士がぶつかってしまう。

比較的自由に柱を配置できるフラットスラブなら、実現しやすい。
また、中間のつなぎ梁も無いので、背の高い車もはいれる。
 

1930年(昭和5年)1月発行の 『工事画報』(第6巻第1号)に短い記事が載っている。
それによると、フラットスラブの「高架線での採用は初めてであり、ビーム(梁)を使用しない最も経済的な設計で、延長760フィート、幅115フィート」となっている。
長さ 231m、幅35mで、ほぼ第1御徒町高架橋のサイズと一致する。

それまで地上を走っていた貨物線の横に高架線ができて、山手線が環状運転を始めたのが1925年(大正14年)11月。

その完了を受けて、1926年(大正15年)6月に貨物線の改良工事が開始され、1930年(昭和5年)6月に完成したものである。 『東工 90年のあゆみ』による
思ったよりも 早い時期であった。
 

経済性はともかくとして、当時の先端技術であったこと。 それを採用して美しい構造物を造る、という設計者の意気込みが上司を説得したのではないだろうか。

フラットスラブが使われている範囲
上記の範囲以外にも、神田駅付近にフラットスラブが残っている。

円柱、円錐形の柱上部、その上部でスラブを受ける テーパー付きの台座、どれも手間だけでなく、型枠製作技術が高くないと、こんなにきれいで均質の姿にはならない。
木工場で、半円形などの形状の型枠の半製品を大量に製作し、現場で組み立てたのではないだろうか。
 
                    林立する丸柱            2010.7.22
              ↑
狭い間隔で柱が2本立っているところは、構造体の縁を切っている部分。

B部分とC部分の区別はなく 同時に施工されたものなので、すべてが昭和初期に建設されたと考えられる。  奥が A部分。
 
貫通する樋

 
隣り合う柱
列柱の数は御徒町側の4本で始まり、ここから5本となって次第に間隔が広がる。
頂部では 円錐コーン同士がぶつかっている。 ここの型枠は難しい!
 
           次第に間隔が広くなる    2010.1.30
以前は駐車場として使われていた。

山手線の外側より (御徒町駅方向を見ている)
↑練塀橋架道橋
第1御徒町高架橋C部分の 南側端部。 最期までフラットスラブである。
当初はここに秋葉原貨物駅に向かう架道橋があったが、取り外された。 正確な時期は不明。
練塀橋以南に貨物駅へと続いていた高架橋(撤去された部分)にも、フラットスラブが使われたに違いない。

ところで、 この道路の地下深く 「つくばエクスプレス」が通っている。
また 上野地下駅から東京駅に向かう新幹線が その隣(写真では左)を通っており、次第に地上を目差して登ってきている。

その新幹線「上野第一トンネル」への非常時の階段が、ここの扉の中にある。

非常口

             第1御徒町高架橋 (山手線の内側から)    2010.9.3
練塀橋       .
練塀橋の上から 御徒町駅駅方向を見ている。
高架橋部分では 左から4線分が A部分、残りが B・C部分である。
中央部は「東北縦貫線」のための改修工事中で、線路がない。


C部分 再開発工事の様子 (2010年8月)

平行する A部分と同様に、ここもショップ開設に向けて改装中である。

無筋だったスラブを取り払い、簡易鉄骨用の基礎としっかりしたスラブの施工が行われていた。 通路となる部分はそのままである。
                   完成予想図         2010.7.22
現地に掲げられた完成予想図(御徒町駅方向を見たパース)
丸柱を生かした高架下の街並みが考えられている。


工事は2010年(平成22年)に終わり、様子は一変しました。
   詳細は 左メニューより、 「生まれ変わった 2k540」 をご覧下さい。

第1御徒町 高架橋

位 置: 台東区上野五丁目
管理番号:   −
線路の数: (下記 ABC は仮の呼び名)
竣工時 A: 3本: 京浜東北線北行き、山手線 2本
B、C: 北側 2本 → 南側 7本
      京浜東北線南行き、
      常磐線引き上げ線
      貨物線
現在 A: 北側 3本: 京浜東北線、山手線 2本
   南側 4本:京浜東北線、山手線
B、C: 北側 4本 → 南側 6本
      東北縦貫線2本 工事中、
      常磐線留め置き線 4本
橋 長: 約 220 m
橋脚の数: 40本、 スパン:5.5 m(6ヤード)
竣工年:
A: 1924年(大正13年)頃
B: 1928年(昭和3年)頃 ?
C: 1930年(昭和5年)6月
備 考:
名前の由来:  建設当時の地名による
地名の由来: 駅名の由来 参照


戦後のフラットスラブ建築

昭和初期の高架橋に比べると ずっと後になるが、戦後まもなくの 1951年 (昭和26年) 竣工の建物として、東京市ヶ谷の日仏学院がある。 設計は 吉村順三。

東京日仏学院

柱が青く塗られていて、風変わりな構造が台地の上で際立っている。

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