山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

神田 → 東京
6. 新石橋 架道橋

しんこくばし かどうきょう
中央線が建設された時、第一鍛冶町橋高架橋に造られた(仮称)南口は、現在も西口として使われている。 そこを出た所が新石橋架道橋で、ホームが伸びたためにアーチの形はわかりにくくなってしまった。

旧南口 (仮称) と新石橋 西 口
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要/鉄道省 東京改良事務所/1920年』

                全 景 (山手線の内側から)       2010.12.7
 ↑第1鍛冶町橋高架橋                  新石町橋高架橋↑

中央線 2線を 部、京浜東北北行き・第2ホーム・山手2線、京浜東北線南行の4線を 部、新幹線を 部 とする。 C部がないのは、新幹線建設時に完全に撤去されてしまったためで、付近の架道橋と記号を合わせている。


A 部分 中央線2線分、開通 :1919年(大正8年)

近 景 (山手線の内側から)
高架橋部分は初めに3線分造られたが、開通した架道橋は中央線の2線だけであった。 90年以上が経過。
手前の桁の左端に「年七正大」の銘板があるが、かなりかすれてしまっている。

                 銘板
大正8年開通がわかっていないと 判読できない。

第一ホームの下 左:一期工事、右:二期工事

秋葉原方向を見ている。 ここは長い間 空が見えていたが、昭和40年頃、ホームが10両編成用に延ばされた。

奥の第一鍛冶町橋高架橋は一期工事で3線分造られたが、右側の架道橋は少し後に造られた。

               中央線ホームから 北方向を見る      2010.9.14
閉床式であるために、ガードの存在感がない。


B 部分 : 京浜東北線北行、山手線2線、京浜東北線南行
        開通 :1925年(大正14年)11月 山手線環状運転開始

                   4線が 二期工事           2010.12.21
秋葉原方向を見ている。 二本の柱をアーチ型のトラスでつなぐのは、神田大通りガードと同じ構造。 3経間の桁の中央を車道、両側を歩道とし、車道は北方向の一方通行である。

                      山手線の桁 2本 (2枚の写真を合成、東京方向)
85年以上経っているにしては状態がよい。 鉄は塗装の管理が命。
橋台部分に店舗があるのは、高架橋が「ラーメン形式」だから。

新幹線ガードの下から

3番線ホームから 秋葉原方向を見る
部分が ガードの南端。 ホームの上にはエキスパンション・ジョイントがある。

4 ・3番線 斜めの金属の板
ここでは 手前が架道橋部分。


D 部分 : 現在 新幹線 2線
1956年(昭和31年)11月:山手線・京浜東北線分離時 に東北本線用として2線。
1979年(昭和54年)〜84年の間 : 新幹線工事のために 桁を撤去
1991年(平成3年)11月 :      新幹線 東京駅乗り入れ :

                   山手線の外側から          2010.12.21
少し行った所に 神田駅南口↑


位 置 (終戦後の様子)
龍閑川               1947年(昭和22年)7月の空中写真/国土地理院
       神田駅                外濠                               東京駅

新石橋 架道橋 データ




1909年(明治42年)測量、1921年(大正10年)修正
大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 販売
位 置: 千代田区鍛冶町二丁目 - 内神田三丁目
  東京駅より 1K 135M 19
管理番号:  8 (東北線)
道路名:
線路の数: 計 8 本 (下記 A〜D は仮の呼び名)
A: 2線: 中央線
B: 4線: 京浜東北線2線、山手線2線
C:  なし
D: 2線本: 東北上越新幹線
  D上部 : 東北縦貫線2線 工事中
支 間: A: 8m 20 , 9m 10 , 8m 20
空 頭: 高さ制限 : 3. 4 m
竣工年: A: 1919年(大正8年) 中央線開通
B: 1925年(大正14年) 山手線開通
C: 1955年(昭和30年)頃増線
   1979年〜84年(昭和59年)の間に、
               新幹線工事で撤去
D: 1991年(平成3年) 新幹線東京乗入れ
備 考: 竣工時の名称は「新石橋」
名前の由来:  当時の町名による。 
江戸時代、周辺は色々な職人が住む町で、鍋町・鍛冶町・紺屋町・大工町・塗師町など、それぞれ職業にちなむ町名が付けられた。 
新石町の「石」は「石 いし」ではなく、米の単位である「石 こく」である。 米や穀物を扱う問屋が集まっていたためにそう呼ばれるようになった。

明治末頃の地図では、現在の江戸通りを挟んで「本石町」が一丁目から四丁目まである。 そこが元は「石町」だったが、神田寄りに「石町」ができたために「石町」と改称されたそうだ。 現在は日銀周辺に「日本橋本石町」が残っている。

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