山手線が渡る橋・くぐる橋  - 架道橋 (ガード)・跨線橋 -

神田 → 東京
22. 銭瓶町橋 高架橋

上空から見た銭瓶町橋高架橋 2010.5.14.
遠くに神田駅。高架橋は印から手前で、橋の全部は写っていない。走っている京浜東北線南行きが、山手線の内側(写真左側)に入り込んでいる。中央線を高架化し、ここで各線が2線分シフトすることによって、東京駅の第5ホーム部分を新幹線用に切り替えた。

山手線の内側から 以下のような仮称を付けるが、A部と B部の建設過程に、はっきりしないところがある。 








TX
:現 中央線 2線
:元は4線


:列車線 2線
 一部はA部と同時期
:旧引上げ線 2線

:新幹線 2線
:1995(平成7)年 完成
:1910(明治43)年9月 竣工
   内2線は中央線の工事のため
   ほとんど残っていない
:1925(大正14)年 増線

:1951(昭和26)年 増線
   現在は一部に新幹線がかかる
:1991(平成3)年 開通


H 部分 :中央線2線
   1995(平成7)年7月2日開通。
山手線内側の様子    2011.12.22.
東京方向を見ている。
東京駅で長野(北陸)新幹線用のホームを増やすために、中央線のホーム 1・2番線を 3階に持ち上げた。
この時銭瓶町橋高架橋の一部を削って、そこに橋脚の片方を建て、もう片方は舗道上に建てて、元の位置からかなり西側(山手線の内側)に新しい高架橋を建設した。
常盤橋に近い部分
とり鉄は 車両撮影ファン の御用達?
新設された2段の高架橋
中央線は3階を目差して上っていく。ここから右側(東京駅側)は、旧来の高架橋部(A部)もコンクリートで造り直されている。

H部下の遠望 急に狭まる柱間隔
コンクリートの柱と鉄骨の柱が混在。高架橋の中央付近で、山手線などがもとの中央線ホームを使うために、2線分西側(写真では右側)に入り込み、高架橋の2本の柱の間隔が狭くなる。 驚異的なトップヘビー。連続しているからこそ成り立つ構造だろう。
完成から30年近くが経過しているが、どうしてもこの不安定な構造に馴染めない。しかし、2011年の震度5強はクリアした。




A(arch) 部分 :電車線4線すべて
   1910(明治43)年9月に竣工
新銭座-永楽町間 東京市街高架鉄道建設工事の工事範囲
旧汐留駅が起点だった旧東海道線から分岐して、新銭座~永楽町間の新線工事が 1896(明治29)年に開始された。現在東京駅がある場所の旧町名が永楽町だった。
開通は14年後の1910(明治43)年9月だが、まだ東京駅舎が完成していなかったため、駅を過ぎた 呉服橋仮駅 (下図 青印)で営業を開始した。
写真A 竣工後間もない時の呉服橋架道橋





銭瓶町橋
 高架橋

『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省/1920年 より



呉服橋
  仮駅

新銭座-永楽町間 東京市街高架鉄道建設工事の工事範囲
中央線が開通する前の呉服橋架道橋の 写真A を見ると、架道橋はすでに4線分が架けられており、その北側(写真の左側)に 本高架橋も写っている。東京-万世橋間の工事の前に、銭瓶町橋高架橋は建設されていたことがわかる。
これは 以下の3つの資料で裏付けられる。
■ 第一の資料:『東京市街高架鉄道建築概要』
(1914年発行)で、同書が計画書ではなく報告書であるために信頼性が高い。「拱橋一覧表」の最後に 銭瓶町橋 があり、長さは 660.5尺(200.15 m)となっている。これは高架橋の全長であり、常盤橋の橋台まで建設された事を示している。
次に示すのが 同書にある平面図。
図B:『東京市街高架鉄道建築概要』の 市街線 線路平面図 (一部)

↑終点の記載 銭瓶橋高架橋  ↑呉服橋   :呉服橋仮駅(1910年9月~14年12月)の位置
『東京市街高架鉄道建築概要/鉄道院東京改良事務所』(1914)
図の向きは本ホームページの進行方向に合わせて逆転してある。線路(朱色)は呉服橋架道橋までだが、銭瓶町に高架橋が書かれ、左端に朱書きで「市街線工事終点」とある。さらに、常盤橋の橋台部分(左端 部分)が広がっている。呉服橋が4線なので常盤橋付近は6線で造られていたことになる。
市街高架鉄道の計画変更
これは1911(明治44)年2月に、4線だった計画を6線とする変更があったため、工事が残っていた部分だけを6線で施行して、1914(大正3)年2月に竣工したものだ。
『東京市街高架鉄道建築概要』10ページに以下の記述がある。
(前略) 又 常盤橋通迄銭瓶町ノ残部拱橋工事ヲ 六線計画畵ニテ 更ニ大正二年四月ニ着手シ 同三年二月ニ竣功セリ (後略)
■ 資料その2:1万分の1地図
地図C:1916(大正5)年 修正測図 1万分の1
大日本帝国陸地測量部・国土地理院、 地図サイズ 400 × 300
前掲図Bの 一部の範囲を掲載している。
東京駅開業 1914(大正3)年 以後の大正5年の地図だが、銭瓶町橋高架橋があるだけでなく、全掲の図と同じく常盤橋架道橋近辺の幅が広がっている。(緑色部分)
高架橋部が「建物」の記号となっているのは、短期間だったが 橋の上に逓信省の仮設建物が建ち、その後に病院として使用したためである。建物は木造でノコギリ型が連続する形だった。
また銭瓶町橋高架橋は、1921(大正10)年の鉄道開業50周年を記念して、初代 鉄道博物館として使われた。下記資料に掲載されている博物館の平面図を見ると、すでに架道橋全体が6線分となっている。
『鉄道ファン 2012年9月号/東京鉄道遺産をめぐる 30 / 小野田 滋』
■ 根拠その3:常盤橋架道橋の銭瓶町橋側(南側)の橋台
に竪樋用の凹部はあるものの、3つの部分 6線分が連続している。ただし、右端(手前)2線の 5分の2 ほどは、中央線の高層化工事のために、切断して取り壊された。
橋台上部のボーダーや その上の立ち上がり部分が連続しており、同時に造られたことを示している。

1915(大正5)年11月から 東京-万世橋間の工事が開始されたが、この区間ではすでに4線が建設済み。
その記録 『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』によると、銭瓶町橋の工事の長さは 160.7 フィート(48.98 m)となっており、摘要欄には「北方橋台一部 及 橋上高欄」とある。これは資料1の最後の部分に書いた、後から施行された最後の6線分に関係する部分のことだろう。


A(arch) 部の現状

新中央線の建設に伴って、もともと4線(常盤橋橋台部は6線)あったA部の西側は大幅に取り壊された。どれだけが残っているのかはっきりしないが、明らかなのは以下の点。



北端の常盤橋架道橋 橋台では、約半線分が取り壊された。
そこから次第に取壊しの量が増え、途中では3線目の一部もカットされた。
南端の呉服橋架道橋 橋台では2線分が完全に造り直された。

 切断された 常盤橋架道橋橋台:A部の北端
常盤橋架道橋の項でも取り上げており、一部重複する。


常盤橋架道橋 橋台 切断面の様子 (山手線内側)2011.2.25.
橋台最下部に水平に貫通口(次の写真の)を開け、カット用のワイヤを通して切断したもの。ダイヤモンドチップを埋め込んだワイヤ・ソーは 何でも切れる。
貫通口から下は 力ずくで壊されたために割れている。貴重な鉄道資産なのだから、もっと大切に扱ってほしい。

常盤橋架道橋橋台 の 断面
橋台全体はレンガをひとつひとつ積み上げたもの。
躯体の最後の部分の凸凹をうまく利用し、道路に面する部分を穴あきレンガで仕上げたもの。突き出た部分の下側は、モルタルのまわりを良くするために削(はつ)られている。
穴あきレンガは乾燥や焼成による変形が少なく、ていねいに作られた仕上げ用のレンガである。
ワイヤソーによる切断面はとてもキレイ。レンガはコンクリートよりも柔らかいのだろう。

銭瓶橋高架橋の北の端    2011.8.25.
アーチも切断されている。ここだけはスパンが小さいために 店舗が無く、高架橋の下が 物置? になっていて、切断面の様子がよくわかる。アーチ内部のコンクリートは、後から補強したもの。
一方で、アーチ状のレンガ造の上に無筋コンクリートが打たれて、仕上げ材としてレンガが一枚並べられている! 完成後に上から見れば、レンガ造に見えるが、純レンガ造ではなかったわけだ。工事期間短縮の意味もあるだろう。  

純レンガ造ではなかった高架橋   2010.2.2.
最上部のコンクリートは、切断後に新しく打たれたもの。
図面をよく見ると、確かに波打つ上面に「二重線」が引かれている。それが敷並べられたレンガだろう。アーチ部との間のハッチングは、種類が違う斜め線となっている。 無筋コンクリートは設計に織り込まれた 当時からのもののようだ。 
『東京市街高架鉄道建築概要』 鉄道院東京改良事務所/1914
図は新橋-有楽町間のもの。

『市街高架線東京万世橋間建設紀要』 鉄道省東京改良事務所/1920
東京-万世橋間の工事時には 銭瓶町橋高架橋は完成済みだっが、山手線内側から見た立面図には、呉服橋の一部と共に一連の絵として載っている。 
銭瓶町橋高架橋の橋脚部のデザインは、新橋-永楽町間の有楽町橋高架橋などに見られる「円形のメダリオン」。 これに対して、常盤橋の左側から始まる新設部は、これまでのアーチ部、千代田町橋などで見てきた「水平ボーダー」のデザインである。
が 前掲写真で断面が見えている、スパンが小さな部分。呉服橋(右下)に近い3スパン、基礎が深く入っている4箇所は、旧道三堀を跨いでいる部分だった。
資材を搬入するために掘を使い、その後に埋め立てたようだ。



A部中間部 の現状
A部の内部や 山手線の外側は、B部に挟まれてほとんど見えないが、一部だけがバックヤード通路となっていて、アーチを見ることができる(下図の部)。丁度、3線目の内側が切断撤去されていた。

取材協力 ”焼き肉 とら八”
山手線の内側から      2012.3.8.
上部の新しいコンクリート梁が中央線高架化時の工事の一部分で、その奥が残ったA部 第3線。薄暗いので 遠目には切断されているのがわからなかった。
ここのレストランの店長は理解のある人で、中に入って写真を撮ることを快諾してくれた。
切断された A部の第3線     2012.3.8.
当初 門扉の外から撮っていた写真に、ワイヤソーを通すためのコア抜き穴が 写っていたのだが、遠くからであり 断面が汚れていた事もあって気が付いていなかった。今回は中に入れたので、間近に見て切断されている事がわかった。
新中央線(H部)やその2階部分を施工するのに、どうしても 第3線にまで食い込んだものだ。削ったのは 数十センチ~50センチ程度だろう。(アーチの内側 厚さ約 30cmのコンクリートは、後からの補強工事によるもの。)
山手線内側の断面 詳細
         コンクリート躯体?↑、 レンガ↑ ↑補強コンクリート
前掲写真の足元。一番下にも水平のコア抜きの跡が見え、年輪のような削り跡もある。レンガがあるのは表面付近だけのように見えるが、本来はすべてがレンガ造のはずだ。前掲の橋台部分とは造りが違うのか?
大手町 とら八 内部
前掲バックヤード通路のすぐ隣のスパン。奥にアーチの一部が見える。手前側は、H部工事の時に RCの柱梁構造となった部分。

A部 東側(第4線部分、山手線の外側から)
通路を進んで振り返ったところ。
この様子からは、A部が4線とも一度に造られたのかどうかを判断するのは難しい。アーチ下側に後から施工された補強コンクリートがあるために、なおさらである。
手前、後から造られた第5線・6線の増線部との間に2m程度の隙間があり、初代交通博物館として使われた時には、通路として使われていた。
レンガの詳細 埋められた中間部
 A部の外側 A部の外側   新設柱  B部↑
黒い装飾レンガが使われているので、A部のオリジナルであることは間違いないだろう。
B部との隙間が埋められたのはH部の工事の時で、中央線を高架化したのちに、第1ホームを京浜・山手線が使うためにここで2線分内側(西側)にシフトするためである (次の写真を参照)
写真D:東京駅から見た 銭瓶橋高架橋



元中央線
の2線
写っている山手線内回り電車は、銭瓶橋高架橋を渡り終えて神田駅へと向かっている。
カーソルを乗せると、一昔前のレールの状態を示す。
まさに銭瓶橋高架橋間で2線分の横移動が行われている。



 A部 南端部、呉服橋架道橋 橋台の現状
呉服橋架道橋(写真右)の「桁と橋脚」はオリジナルを再利用しているが、旧中央線2線分の「橋台」は、完全に造り直された。
桁の位置は変わっていないので、この部分を造り直した理由がはっきりしないが、新設したH部の柱との構造的な関係だろう。

山手線の内側から(新しい梁の奥が 第3線)
右奥に見えるレンガ橋台は、A部の3・4線と B部2線で、後から造られたB部でも 100年以上が経過している。
新設橋台は電車が走っていない状態で改築されたと思われる。桁をジャッキアップした状態で作り直し、再度据え付けたものだろう。
新設高架中央線が完成した後に、本高架橋区間で2線分の横移動の工事が行われた。前掲 写真D 参照。



B 部分 :1921(大正10)年8月 竣工
まだ繋がっていなかった東京-上野間に電車線を2線新設する工事、「市街高架線東京上野間建設工事」が 1920(大正9)年2月に着工し、1921(大正10)年8月にはこの工区の高架橋が6線化されたようだ。
1919(大正8)年3月:東京 - 万世橋間 (中央線) 開通、神田駅開業
すでに4線分の高架橋が建設済みの本高架橋には変化なし。中央線としてのA部の利用は、東側の2線のみ。
山手線「の」の字運転 開始。
地図E 1919(大正8)年修正測図 中央線開通
1909(明治42)年測図、1916(大正5)年第一回修正測図、1919(大正8)年 鉄道補入
/1万分の1地図 / 大日本帝国陸地測量部・国土地理院 に加筆
地図Cとはスケールが異なる。は呉服橋架道橋。
中央線の複線記号が追加記入されたもの。銭瓶町橋高架橋は同じ形状で、呉服橋架道橋寄りの東側2線分(B部)はまだ築造されていない。外濠橋梁はあらかじめ6線分が造られた。
1920(大正9)年2月:市街高架線東京上野間建設工事 着工
東京-上野間をつなぐために電車線を2線、二期工事として汽車線2線の計4線を新設する工事が着工する。
1921(大正10)年8月:銭瓶町橋高架橋が属す工区の躯体工事が竣工
地図F 1921(大正10)年 6線分の高架橋

1921(大正10)年 第二回修正測図1万分の1地図 / 大日本帝国陸地測量部・国土地理院
2年間のあいだに高架橋2線分が追加されて、すべて6線(緑色部分)となっている。
銭瓶町橋高架橋は初めから4線が造られていたので、第5・6線目は二期工事でもよいはずだが、地図では6線の形となっている。
図G:市街高架線東京上野間開通後

『市街高架線東京上野間建設概要』1925(大正14)年 / 鐵道省 に加筆
B部(緑色)の境界線が一点鎖線なのが気になるが、呉服橋架道橋は実線であり、架橋のリストにも挙がっている。
この図から、常盤橋の北側に続く大手町橋高架橋も、この時期に6線化されていたことになる。
この部分は大正後期の高架橋新設であるから、すべてコンクリート製だと思っていたのだが、『東京市街高架線東京上野間建設概要』(1925) 17ページにある陸橋一覧表では「煉瓦拱」(レンガ・アーチ)となっている。次表・・・
陸橋のリスト
『東京市街高架線 東京上野間建設概要/鉄道省/1925.11』 17ページ

実際は、コンクリート造で東側の立面部分のみがレンガ造、あるいはレンガタイル張りだった。延長は 657.33呎、約 200m。

B部の 自転車・バイク置き場
山手線の外側、呉服橋架道橋からすぐの位置のふたスパンが、自転車と 50ccバイク の置き場となっている。立地上、歩道を通って中に入る。一部、C部の高架下も使われている。

実際はもっとずっと暗い。左が自転車、右がバイク用。
B部はコンクリート造のアーチで、A部のような後からの補強は無い。奥の壁の向こうがA部で、西側から出入りする店舗となっている。
メダリオン   2023.12.10.
立面(見え掛かり)部分は、レンガあるいはレンガタイルで仕上げられ、西側(山手線の内側)と同じく、円形の装飾がつけられている。戦後に手前のC部が建設されるまでの約30年間、アーチが連続する姿が見えていた。
銭瓶町橋高架橋の立面図(西側) / 再掲

『市街高架線東京万世橋間建設紀要』 鉄道省東京改良事務所/1920

脱落などの危険防止のために 上半分には網がかけられている。

レンガは真物なのか、薄手のものなのかは確認できなかった。

B部の常盤橋近く
早くに6線分造られた部分、レンガ造と思われるアーチの一箇所が「空き家」となっている。

アーチはコンクリートで補強されている。奥の4線分がA部に相当する。手前は実際はもっと暗い。
メダリオン            2023.12.10.
約110年を経ているが、淡緑色の石材を用いたメダリオンはほぼそのまま残っている。西側の1線~2線は新中央線の工事のために取り壊されていて、メダリオンは全く残っていないので、よけいに貴重である。



C 部分 :1951(昭和26)年12月:東京駅引上げ線として2線増線
山手線と京浜東北線を完全分離するために、すでに確保してあった外側の敷地に2線を増線する工事が、1949(昭和24)年11月に開始され、呉服橋架道橋から 神田駅寄りの千代田町橋高架橋までが完成した後は、東京駅の引上げ線として使われた。 
1956(昭和31)年に田町・田端間の全線が増線され、「東京縦貫電車複々線」が一度は完成したのだが、東京駅ホームの数が少なかったために、東京発の東北本線は ほとんどなく、その後も もっぱら東海道線の折り返し、引きあげ線として使われた。
現在は上野東京ラインが、銭瓶橋高架橋上でC部から内側に2線分シフトしている。

常盤橋架道橋の下から 東京方向  2009.12.10.
橋台だけが曲線のデザインとなっている。

少し先に進んだところから 東京方向  2011.8.25.
柱・梁 型式のRC構造。昼なお暗い回廊で、1線分が歩道、その右側1線分が事務所や倉庫のスペースとなっている。

呉服橋架道橋下から 神田方向  2011.2.25.
C部分橋台↑    新幹線3線
新幹線は東京駅で4線とするために、この付近でまず3線となる。新幹線の長く重い桁を乗せるために、高架橋の最南端、橋台が造り直されている。詳しくは 呉服橋架道橋の項を参照。



TX 部分 :1991(平成3)年6月:東北新幹線 東京駅乗り入れ
ここでは言問橋から南下してきた「江戸通り」の半分を使って通された。高架橋の下も道路。
山手線の外側 東京駅方向を見る       2011.12.22.
2011.8.25
突き当たりの道路部分が呉服橋架道橋。その先は行き止まりで すぐに東京駅。



位 置 (終戦後の様子)
           龍閑川          
     神田駅           外濠                     東京駅
 1947(昭和22)年7月の空中写真/国土地理院

銭瓶町橋高架橋 データ



1909(明治42)年 一万分の一地図
位 置: 千代田区大手町二丁目
管理番号:  -
道路名:  -
線路の数: 現在 計 10 線
 (下記 H~TX は仮称)
H:2線: 中央線
A:4線: 旧 中央線ほか
  約2線分は取り壊されたり、
   作り直されたりしている
B:2線: 山手線・京浜東北線
C:2線: 旧東北本線
  (東京駅引上げ線)、
    現在は上野東京ライン
TX:2線: 新幹線
橋 長: 約 200 m
アーチの数: 山手線の内側で 21 (図面より)
『市街高架線東京万世橋間建設紀要』
竣工年: H:1995(平成7)年 完成
A:1910年(明治43年)9月竣工
 ただし常盤橋橋台は6線とも施工
B:1925(大正14)年 計6線に
  施行は1921(大正10)年以前
C:1956(昭和31)年2線 増線
TX:1990(平成)2年頃
    新幹線高架橋
備 考: 旧名称は 銭瓶町橋
名前の由来:  旧町名に由来する。
銭瓶(ぜにがめ)の由来は「道三堀」に架かっていた橋のたもと?で、土の中から銭が入った瓶が見つかったことによる。橋の名が「銭瓶橋」となり、1872 (明治5)年に銭瓶町の町名が誕生した。

道三堀(図中・・・・・)は江戸時代最初期の堀で、今の日本橋川の元となったもの。外濠から江戸城側は 埋め立てられた。左の地図では残っているが、1916(大正5)年の地図には無いので、鉄道工事前後に埋められたと思われる。なお「道三」の名は、戦国時代の斉藤道三ではなく、徳川家の侍医だった「今大路道三」ということである。

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