山手線が渡る橋・くぐる橋 |
- 架道橋 (ガード) ・跨線橋 - |
神田 → 東京 |
23. 呉服橋 架道橋 |
2012.6.1 最初の掲載 2013.10.16 C部北側(東京駅側)の橋台についての記述を 訂正。 2023.12.3 全面更新。各所の建設の歴史を補強・訂正 |
竣工当初 ここから北には線路が無く、幾多の増線と新幹線、新設高架中央線のための改築が行われたため、通過する路線が何度も変ったりC部の桁は移設縮小されるなど、特異な歴史をもつ架道橋である。 |
いかにも江戸の雰囲気がする橋名 呉服橋。しかし 外濠が埋められてしまったた結果、そこに架かっていた 本家 呉服橋は消えてしまった。 |
架道橋としての「呉服橋」は、東京駅から北に向かう東北本線に架かる最初の橋で、いよいよ東京駅の直前までやって来たことになる。神田駅のホーム下にある 第三鍛冶町橋高架橋をアップしたのが2010年12月だったので、ひと駅で1年半近くかかってしまった。渋谷-原宿間を手がけたせいもあるが、それだけ楽しんだ、ということか・・・。 |
呉服橋架道橋 遠 景 2009.12.10. |
↑新幹線は、架道橋上で4線目が分岐する。奥の高架橋が中央線。 |
山手線の内側から 以下のような仮称を付ける。 |
H部 A部 B部 C部 TX部 |
:現 中央線 2線 :旧中央・山手線 4線分 :旧列車線 2線増線部分 :旧東京駅引上線 2線増線 現在は保線用の通路 :東北新幹線 3→4線に分岐 |
:1995(平成7)年完成 :1910(明治43)年9月竣工 :1921(大正10)年 橋台のみ 1922(大正11)年頃 架橋 1925(大正14)年 開通 :1951(昭和26)年 (○ ●の位置) 新幹線の建設時に架け替え、 その後の増線に伴って左に移動 :1991(平成3)年開通 |
H 部分 | : 中央線2線 1995(平成7)年7月2日開通。 |
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巨大な橋 2012.3.8. |
神田方向を見ている。真横からでは入りきらないので、斜めから。川や海ではもっと長い橋があるが、都心のJRではかなりの長さ。不安定感はともかくとして、施工方法が気になるところだ。 |
近 景 2012.1.30. |
大きいわけだ、スパンは 55m。 東京駅方向を見る。 |
A 部分 | ||
第3・第4線の橋脚。北から南に東京駅方向を見ている。 |
A部 4線 の歴史 |
1910(明治43)9月 | :竣工 | / 架橋するも通常の利用は無し |
1919(大正8)年3月 | :中央線開通 | / 西側の2線のみを使用 |
1925(大正14)年11月 | :山手線環状運転. | / 中央線2線、山手・京浜で2線を共用 |
1956(昭和31)年11月 | :山手・京浜分離 | / 中央線2線、山手内回り、京浜北行き |
1995(平成7)年7月 | :中央線高層化 | / 現状 京浜東北線、山手線の4線 |
1910(明治43)年9月:新橋 - 呉服橋仮駅間 開業 | |
4線分の架道橋に 線路は3線。列車の通過は無し。 |
写真A 竣工後間もない時の呉服橋架道橋 | ||
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省/1920年 より |
呉服橋 仮駅 |
山手線の内側から東を見たもの。右方向が東京駅で、写真の右端に写っている「呉服橋仮駅」は、東京駅が開業するまで 約4年3ヶ月使われた。 架道橋の橋脚が5本、正確には6本(2線3本が2組)あることから、初めから4線分の桁が架けられた事がわかる。 |
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右側の銭瓶町橋高架橋の上に 切り妻屋根の建物が建っているのは、当面使う予定のない高架線の上に建てられた病院である。電車は呉服橋仮駅で折り返しなので、常盤橋架道橋の手前まで建設された高架橋の上に、仮設的に建てられたもの。短い期間だった割には立派な建物だった。 | ||
1914(大正3)年2月:下図Bの緑色の部分だけが6線として完成する | ||
4線で計画された新永間市街線は、1911(明治44)年に6線に計画変更され、工事が残っていた終点付近、北端の橋台を含む銭瓶町橋高架橋の一部は6線で造られた。 | ||
1914(大正3)年12月20日:東京駅開業 | ||
呉服橋仮駅は終了。 |
図B『東京市街高架鉄道建築概要』の 市街線金杉橋銭瓶町間 線路平面図 (一部) |
終点の記載 ↑銭瓶橋高架橋 ↑呉服橋 ○:呉服橋仮駅 |
図の向きは本ホームページの進行方向に合わせて逆転してある。線路は呉服橋架道橋の北端までで、東京駅開業後も電車が通過することはなかった。この図では3線が敷かれている。 |
1919(大正8)年3月:東京 - 万世橋間 (中央線) 開通、神田駅開業 | |
本架道橋には変化なし。山手線「の」の字運転 開始。 A部の利用は、中央線として 東側の2線のみ |
地図C 1919(大正8)年修正測図 中央線開通 |
1909(明治42)年測図、1916(大正5)年第一回修正測図、1919(大正8)年 鉄道補入 /1万分の1地図 / 大日本帝国陸地測量部・国土地理院 |
図Bとはスケールが異なる。 中央線の複線の線路が追加記入されたもの。銭瓶町橋高架橋は図Bと同じ形状で、呉服橋架道橋寄りの東側2線分はまだ築造されていない。外濠橋梁はあらかじめ6線分が造られた。 |
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地図D 1921(大正10)年 6線分の高架橋 |
1921(大正10)年 第二回修正測図1万分の1地図 / 大日本帝国陸地測量部・国土地理院 |
2年間のあいだに高架橋2線分が追加されて、すべて6線(緑色部分)となった。 | |
参考:銭瓶橋架道橋以北では4線分の高架橋が造られた。 | |
1921(大正10)年10月14日:初代の鉄道博物館 開館 | |
6線となったアーチの高架下に、初代の鉄道博物館がオープンし、1935年まで使われた。 | |
1925(大正14)年9月:山手線 環状運転開始 | |
東京-上野間の電車線2線が開通。東京-神田間は4線。 本架道橋では初めから4線分の桁が用意されていたので、A部については変化なし。 (4線の状態の地図は 無い) |
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参考: | 銭瓶橋架道橋以北では残りの4線分の高架橋にまず2線が通され、さらに2期工事として汽車線2線が敷設されて、1929(昭和3)年3月までに計6線分が完成した。(参考文献 2. による) |
全 景(山手線の内側から) 2010.1.20. |
全長で 36.5m を ほぼ3等分した形。両側には歩道があるので、車両用は橋脚を挟んで各2車線である。東京駅の南側にある「鍛冶橋架道橋」と、まさに同じ構造。 |
『東京市街高架鉄道建築概要』鉄道院東京改良事務所 / 1914 には本橋と同形の 鍛冶橋架道橋 西側立面図 が載っている。 |
架道橋の下から東京駅方向を見る 2012.1.30. |
複線 3主桁が2組の 計4線。橋脚も3本が一組で、計4組。いずれも上部に補強プレートが取り付けられている。オリジナルのブレースはひと組だけで、ほかの3組はガッチリした鉄骨ブレースに取り替えられている。 |
図の出典は 前掲のものと同じ。 |
オリジナルのブレース | 付け替えられたブレース |
銭瓶町橋高架橋の橋台 2011.10.12. | (仮称)呉服橋高架橋側 | |
中央線(高架橋)新設工事の関係で、内側2線分の橋台は造り直された。架道橋の桁は再利用されている。 |
近 景(山手線の外側から) |
東京駅方向を見ている。右側4線が A部分。次の写真は桁の中央部分。 |
奥の4線が A部分。橋脚の外側(両側)の桁を中央に持ち出したゲルバー式だが、背の小さい中央部分の桁は、左右に乗せずに突きつけてリベット止めした古い形式である。 |
9箇所でリベット止めされていたが、上下2箇所ずつは 後にボルト止めに交換されている。 |
B 部分 | B部の歴史には不確かな部分がある | |
以下、グレー部分は推定・未確認事項 |
北から南に東京駅方向を見ている。特徴は A部とは異なる門型の橋脚。 |
左が神田側、右が東京側。 嵩上げの高さは 約 1.2 mと推定。 |
もう一つの注目点、嵩上げされた橋台 |
B部 2線 の歴史 |
関係する ■東京駅の状態 も合わせて掲載する。またC部の歴史と一部重複する。 |
年 月 | :項 目 | 関連図 | / 備 考 |
1910(明治43)9月 | :A部 竣工 | ||
1914(大正3)年12月 | ■東京駅 開業 | ||
1919(大正8)年3月 | :中央線開通 | / A部2線を利用 | |
山手線「の」の字運転、新宿→神田→東京→品川→新宿→池袋→上野 | |||
1920(大正9)年2月 | :市街高架線 東京上野間建設工事の「第一工區*1)」 着工 | ||
1921(大正10)年8月 | :第一工區の高架橋完了 | / B部を含めて6線化されたと考える | |
地図D | / B部 東京側橋台も造られたと推定 | ||
1922(大正11)年 | :B部の桁の架設 | / B部の銘板 および 工事記録による | |
1923(大正12)年3月 | 第一工區の架道橋架設 完了 | ||
1925(大正14)年11月 | :山手線環状運転る | 地図E | / B部は列車線として使用 |
1942(昭和17)年9月 | ■東京駅 第5ホーム | 図F | / 初めてのホーム増設 |
1949(昭和24)年12月 | :山手線 田町-田端間 複線増設計画着手 | ||
1951(昭和26)年12月 | :東京駅引上げ線 | / C部、計8線に | |
1953(昭和28)年7月 | ■東京駅第7ホーム | / 第5ホームと同じレベルで新設 | |
同 年 9月 | ■東京駅第6ホーム | 同 上 | |
■東京駅第4ホーム嵩上げ | / 1.27m 嵩上、#5と同じ高さに | ||
同時期に B部 嵩上げと推定 | / 橋脚はリベット使用の門型 | ||
1956(昭和31)年11月 | :山手・京浜分離 | 写真H | / 山手外回り、京浜南行きとして使用 |
1995(平成7)年7月 | :中央線高層化 | / 不使用となる | |
2015(平成27)年3月 | :上野東京ライン開通 | / 現状 上野東京ライン2線 | |
*1)『東京市街高架線東京上野間建設概要』より 第一工区は東京駅より 日本橋區本銀町1丁目6番地まで |
以下は B部の歴史の詳細検討 |
再掲 地図D 1921(大正10)年 6線分の高架橋? |
1921(大正10)年 第二回修正測図1万分の1地図 / 大日本帝国陸地測量部・国土地理院 |
銭瓶町橋高架橋の東側2線分が追加されて、すべて6線(緑色部分)となった状態。当然 東京駅側の橋台も造られただろう。 | |
架道橋部分▲をよく見ると、6線分の架道橋が架かっているように表現されているが、1921(大正10)年時点では桁は架けられていなかった。その根拠は、桁の銘板に示されている。 | |
一行目の桁の製作年は「大正十一年」。『東京市街高架線東京上野間建設概要』でも、架橋工事は1922年5月からとなっている。南側から工事が進められたとすれば、ここの架橋は1922(大正11)年と考えて間違いなかろう。 | |
1925(大正14)年9月:山手線 環状運転開始 | |
東京-上野間の電車線2線が開通。東京-神田間は4線。 本架道橋では初めから4線分の桁が用意されていたので、A部については変化なし。 (4線の状態の地図は 無い) | |
参考: | 大手町橋高架橋以北では追加された4線分の高架橋にまず2線が通され、さらに2期工事として汽車線2線が敷設されて、1929 (昭和3)年3月に計6線分が完成した。(参考文献 2. による) |
地図E 1932(昭和7)年 6線の状態 |
1930(昭和5)年測図 同7年 鉄道補入 / 大日本帝国陸地測量部・国土地理院 |
昭和5年の地図は状態が悪いため、7年製のものを使う。 呉服橋架道橋以北の東側には、すでに増線用の敷地(黄色)が確保されている。 | |
もう一点の注目点は、現状は橋台上部がコンクリートで嵩上げされているが、 |
当初の道床は既存のA部と同じレベルだった、つまりレンガ造(銭瓶町橋側はコンクリート造)の橋台に、直接載っていた |
・ ・ ・ |
と考えられること。その根拠としては、 地図Eでもわかるとおり、東京駅のホームは開業当初の4面ですべて同じレベル。さらに、東側(図の上側)の旅客操車場にも配線されているので、嵩上げする必要性がまったくないこと。 参考資料 4.『東京鉄道遺産をめぐる30 帝都の赤絨毯 -新永間市街線 その2-』p.120 に、6線化完了後の呉服橋架道橋の絵葉書(小野田氏所有)が載っており、A部とB部は同一レベルであること。 戦後の空中写真G-2から、A部とB部は同一レベルと考えられること。 などが挙げられる。 |
そうするといつ嵩上げ工事がなされたのかが問題となるが、写真G-2から、終戦後のことだったことがわかる。 |
1942(昭和17)年9月:■東京駅 第5ホーム使用開始 | |
それまでの4面よりも 高いレベルに造られた。 |
図F 第5ホーム使用開始時の配線図 | |
呉服橋架道橋のおよその位置 | 参考資料 2. に加筆 |
第3ホームを横須賀線発着と列車到着、第4ホームを東海道線列車出発として使っていたが、乗客・通勤客が増えてきたために東側の客車操車場や機関区の多くを品川に移転し、1面を増やして 5面 10線 1引き上げ線 2回送線とした。 |
写真G 終戦後の1947年 6線の状態 |
1947(昭和22)年7月24日 米軍撮影 / USA-M377-67 / 国土地理院 |
東京駅の八重洲側(写真右上側)にはまだ地上レベルの操車場が残っており、図Fとあまり変わっていない。次の写真は架道橋部分の拡大。 |
写真G-2 1947年 6線の状態の部分拡大 |
同 上 |
線路が光って X型のポイントまで写っている。注目は線路を跨ぐビームの影▼。A部とB部が直線となっていることで、両者にレベル差が無いことがわかる。 |
1949(昭和24)年12月より:山手線 田町-田端間 複線増設工事開始 | |
1951(昭和26)年12月:上記工事の一環として、C部 東京駅引上げ線竣工 |
写真H C部 初代の桁 8線 の状態 | ||
1963(昭和38)年6月26日 12時26分 / 国土地理院撮影 / MKT636-C8-21 | 東京駅 → |
東側に2線が追加された。7番ホームへの配線の関係で、写真上側の桁は斜めに架けられている。 | ||
注) | 竣工の1951年からは時間が経っているが、50年代の空中写真の画質が悪いため、10年後の写真を使用している。 | |
ビームの影がこれも直線のように見えるため、8線とも線路レベルが同じ、とも思えてしまう。しかしこの写真の撮影は夏の正午過ぎで太陽高度が高く、しかも両者の高低差が1m程度なので、影にほとんど差が付かないためだと考える。 |
1953(昭和28)年7~9月:■東京駅第6、第7ホーム増設 | |
第4ホームから第7ホームまでを列車線に使うために、この時期に第4ホームがほかのホームと同じ高さに嵩上げされた。 | |
(参考文献 2. による) |
以上の考察から、B部もこの時期に嵩上げされたと結論づけられる。 |
桁は当然のように再利用され、橋脚は、東京駅を挟んだ鍛冶橋架道橋の引き上げ線部分(桁の製作は1955(昭和30)年)でも見られる、門型の構造が用いられている。 |
左B部 と 右A部の 隙間 2012.1.30. |
桁の製作年は1922(大正11)年だが、橋脚の「門形ラーメン」は昭和50年代のものと推定される。 |
中央 B部 2010.2.4. |
C部 B部 A部 |
橋脚の詳細 |
加工したプレート同士を、アングルを使ってリベット止めしている。 |
中央スパン部分 |
ゲルバー式 |
桁は3径間で、張り出した桁に中央の桁を載せるスタイルはA部と同じだが、中央径間の取り付け方が異なり、段違いを付けて乗せている。以後はすべてこの方法が採用された。 |
東京駅側の橋台 2012.3.26. |
奥がB部の橋台で、A部の10年少々後に造られたもの。デザインはA部とほとんど同じだが、線路のレベルを高くした時にコンクリートの袴を履かせている。B と A の中間部は 補修されたためか、後から張り付けたのか、レンガタイル張りとなっている。 |
神田側(北側)の橋台 | 銘板がある |
B部の銘板 |
B部では2本ともに北側に銘板が残っている。製作年はともに「大正十一年」(一行目、左から)、横河橋梁製作所 製作。 |
東京駅から 神田方向を見る 2010.2.4. |
▼が呉服橋架道橋 B部。 その奥で線路が右にずれている所が、新中央線工事の後で2線分横にスイッチする場所。東京駅で 右側に東北新幹線のホームを増やすためにスペースを作ったもの。以前は手前の2線に、山手線外回りと京浜東北線南行きが走っていた。 この写真の撮影時ではまだ工事中だったが、今は国鉄時代からの悲願だった「東北縦貫線、(上野東京ライン)」となっている。 |
C 部分 | :1951(昭和26)年12月:東京駅引上げ線として2線増線 | |
↓C部 の現状 2009.12.10. |
B部 残されたC部 ↑以前にあった場所↑ 新幹線部 |
神田方向を見ている。残っているC部には線路が敷かれていない。架け替えの歴史があり、さらに、2線分あった桁は幅が縮められて通路として再利用されている。 |
中央線から見た C部 2023.12.10. |
保線時の通路として使われているが、こんな立派な通路はほかには無いだろう。なぜか 手摺りが二重になっていて、B部に面した所は入れないようだ。安全上の問題だろう。新幹線側にもフェンスがある。 |
C部 2線 →1線分 の歴史 |
B部の歴史と一部重複する。また 関係する ■東京駅の状態や □ TX部の建設についても掲載している。 |
年 月 | :項 目 | 関連図 | / 備 考 |
1949(昭和24)年12月 | :山手線 田町-田端間 複線増設計画着手 | ||
1951(昭和26)年12月 | :東京駅引上げ線 | / C部、計8線に | |
1953(昭和28)年 夏 | ■東京駅第7・第6ホーム | / 第5ホームと同じレベルで新設 | |
■東京駅第4ホーム嵩上げ | / 1.27m 嵩上、#5と同じ高さに | ||
同時期に B部 嵩上げと推定 | / 橋脚はリベット使用の門型 | ||
1956(昭和31)年11月 | :山手・京浜分離 | 写真H | / もっぱら引き上げ線として使用 |
1964(昭和39)年10月 | ■東海道新幹線 開業 | ||
1974(昭和49)年 | :C部 桁の架け替え | 写真I | / 東京駅構内の配線変更のため |
長期的には、東北新幹線 東京-上野間のスペース確保のため | |||
1982(昭和57)年6月 | □東北新幹線 大宮-盛岡間 暫定開業 | ||
1985(昭和60)年3月 | □ 同 上野-大宮間 開業 | ||
1989年10月 | □東北新幹線工事中 | 写真J | |
1991(平成3)年6月 | □ 同 東京-上野間 開業 | 写真K | / 東京駅乗り入れ |
1995(平成7)年7月 | :中央線高層化 | / C部は不使用となる | |
? | 新幹線増線のためC部は縮小して西寄りに移動される | ||
1997(平成9)年10月 | □東京駅の東北新幹線用ホームが2面となる。新幹線計5面 | ||
2015(平成27)年3月 | :上野東京ライン開通 | / B部を使用 | |
以下は C部の歴史の詳細検討 |
1951(昭和26)年12月:東京駅引上げ線 竣工 計8線に | |
戦後間もない 1949(昭和24)年11月、山手線と京浜東北線を完全分離する計画の一環として、すでに確保してあった東側(山手線の外側)の敷地に2線を増線する工事が 開始される。 7・8線目のこの部分は、将来的には東京駅発の「東北本線」を走らせる列車線だが、工事名称は「東京駅引上線高架橋新設工事」で、千代田町橋高架橋までが完成した後は東京駅の引上げ線として使われた。 |
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1956(昭和31)年11月:山手・京浜分離 | |
5年後に ようやく 田町・田端間の全線が増線され、「東京縦貫電車複々線」が一度は完成したのだが、東京駅ホームの数が少なかったために東京発の東北本線はほとんどなく、その後も、もっぱら東海道線の折り返し・引き上げ線として使われた。 |
再掲 写真H:C部 初代の桁 8線 の状態 | ||
1963(昭和38)年6月 / MKT636-C8-21 / 国土地理院 |
東京駅 → |
東側に2線が追加された。操車場への配線の関係で、写真上側の桁は斜めに架けられている。▼は神田寄りの常盤橋架道橋。 | ||
注) | 竣工の1951年からは時間が経っているが、50年代の空中写真の画質が悪いため、10年後の写真を使用している。 |
1964(昭和39)年10月:■東海道新幹線 開業 | |||||
1974(昭和49)年頃、直線形状の桁に架け替えられた。 | |||||
その根拠は、現在残っている桁についている銘板と、1975年撮影の空中写真である。なお、1971年の空中写真は初代のまま。 | |||||
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写真I(1975年):架け替えられた C部 二代目 | ||
1975(昭和50)年1月20日 / CKT-7415-C28A-44 / 国土地理院 |
東海道新幹線 16~19番線 始まった 14-15番線 への工事 |
1975年1月の写真に74年製の桁が写っているのだから、ほかからの転用ということはあり得ない。 直線の桁が1本のように見えるが、銘板から、桁の構造的?には2本あったと考えられる。また写真左側 常盤橋架道橋▼は、明らかに2線分の桁が確認できる。 |
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この架け替えは、遠距離列車発着用の第7ホームのスペースを 東海道新幹線 15番線に転用する工事に先駆けたもの。 新幹線3本目のホームは、東海道新幹線と東北新幹線との直通運転も視野に入れて、上野寄りの管制センターがあるビルを避け、西側にカーブさせた。結果的には別会社・別路線となったこともあり、直通運転は行われていない。 |
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東海道新幹線のホームを増やすだけなら、呉服橋架道橋を架け替る必要はないのだが、早くに東北新幹線の計画が確定していて、先行して架道橋を直線にしたのだろう。 | |
1975(昭和50)7月:■東海道・山陽新幹線 第7ホーム15番線の使用開始 | |
1982(昭和57)年:□東北・上越新幹線、大宮以北で営業開始 | |
1985(昭和60)年:□東北新幹線、上野駅乗り入れ |
写真J(1989年):東北新幹線高架橋 TX部 工事中 |
1989(平成元)年10月20日 / CKT-893-C6A-30 / 国土地理院 に加筆 |
2代目の桁が架けられてから14年後の写真。 状態は 写真Iと同じで、C部の桁の位置は神田側に続く「引き上げ線(銭瓶町橋高架橋)」と同じ位置、同じ幅である。このため、元の2線は次の写真の▲を通っていたはずだ。 |
つまり現在のC部の桁は、新幹線の桁(TX-II)の増設時に、左方向に移設されたものである。 |
1991(平成3)年6月:東北・上越新幹線 東京駅乗り入れ | |
75年の架け替えの成果が発揮されたのは、約16年後だった。 |
写真K(1992年):東北新幹線 東京駅乗り入れ後 |
1992(平成4)年10月10日 / CKT-921-C8-36 / 国土地理院 |
図L 東北新幹線開通時の配線図 | |||
TX 2線 C 2線 B 2線 A 4線 |
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注) ホームの長さは模式的で正確ではない | 参考資料 2. に加筆 |
新幹線用のホームが4面となった。青が東海道、緑が東北・上越。 この後、第5ホーム(黄色)のスペースも新幹線用に転用される。 |
1995(平成7)年7月:中央線 高層化 | |
その後、本架道橋のC部は使われなくなる。 | |
C部の桁を移動し、増線用のスペースをつくる。 | |
1997(平成9)年10月:北陸新幹線 東京-長野間開通 | |
東京駅 第5ホームが新幹線用となる。1975年の架け替えからは、約22年。 |
写真M:東北新幹線 東京駅ホーム増設後 |
1997(平成9)年6月30日 / CKT-972X-C5-20 / 国土地理院 |
1992年「写真K」の次に公開されている空中写真は、あいだが空いて 1997年。しかも解像度が極めて悪い。 1998年2月の長野オリンピック開催に向けて、5年間のあいだに大きな変化があった。中央線▲が高架とし、山手・京浜と東海道本線のホームがそれぞれ西側に移して、第5ホームの位置に 東北・上越・北陸新幹線ホーム▼が新設された。 |
写真N:C部の現状 |
Google Earth より / 2023年 |
中央線から見た C部 (再掲) 2023.12.10. |
上野東京ラインから見たC部 2023.12.10. |
C部は左の通路部分。これから渡るのはB部で、正面は 第3ホーム。山手線などよりも一段高くなっている。 | |
底面内側の相対する位置には、水平ブレースを取り付けていたと思われる「ガセットプレート」▼が残っている。 |
竣工当初とは異なる C部神田側の橋台 |
資料『 東工 』/ 日本国有鉄道東京第一工事局 で確認 | |
1987(昭和62)年に発行された『東工』は、1896(明治29)年4月に 当時の新橋駅構内に「新永間建築事務所」が発足してから90年を迎え、また発行年の4月からは分割民営化されることが決まったことを受けて編集されたもので、山手線の歴史を調べるにあたって、色々と参考になる資料である。 | |
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その 394ページに、銭瓶町橋高架橋の竣工時の写真がある。呉服橋架道橋の一代目の桁はまだ架けらておらず、高架橋の南端の橋台の様子がよくわかる。著作権の問題があるので写真を載せることができないが、現状とは違う、よりスマートなものである。 | |
現在のC部 神田側の橋台 (再掲) |
再度同じ写真を掲載する。片持ち梁の左端がB部の橋台に食い込んでいるので、ひと目で造り直されたか 補強されたものだとわかるが、『東工』の写真によって最初のものとは違うことが確認できる。デザイン的には似ているが、桁を受ける水平の梁の高さが1.5 倍以上に大きくなっている。 | ||
では、改修されたのはいつなのか? | ||
可能性としては次のふたつが考えられる。 | ||
①:C部の二代目が架け直された 1975年頃 | ||
12 | ・ | 1972年に山陽新幹線が一部営業を開始しており、桁が架け替えられた 1975年時点で、東海道新幹線はすでに3つ目のホームを使い始めていた。 |
・ | 東北新幹線用にも将来的には2面が必要であるから、架け替え当時、新幹線ホームを計5面とすることがすでに計画されていた可能性がある。国鉄・JRの長期的な計画は非常にしっかりしている。 | |
・ | そのため架け替え時に、新幹線の桁と車両の重量に堪えるだけの、大きな橋台を造っておいた。 | |
・ | C部の架け替え時には初代の桁が撤去されるので、橋台の工事がやりやすい。 | |
②:北陸新幹線が増線された 1997年頃 | ||
・ | 新幹線の開通時点 写真J・K では以前の位置、前掲写真の ←→ の位置にあり、左側の方持ち梁を大きくする必要がない。 | |
・ | 現在は、在来線の通路として再利用するために元の桁を解体・移設したものである。古い桁を利用しない方法も考えられるので、20年も前に将来の橋台を計画・施行しておく①の案は無理があるような気がする。 | |
・ | 橋台の改修前に、桁をジャッキアップ・仮受けする必要がある。ただし、大きな問題点ではない。 | |
決定的な決め手はないが、B部に食い込んだ状態を 20年も前に造るのはどうかと思うので、② だった、としておく。 |
写真 左:『東工』の写真によると、もともと柱から西側(左側)に突き出した「片持ち部分」は、現状のように食い込んでおらず、B部とC部の桁の間は隙間があった。 新しい橋台は、新幹線側にできる限りのスペースを割くために、B部の桁 ギリギリまで腕をのばし、さらに、大きな梁にするためにB部の橋台のコーナーの飾り柱上部を取り壊した。 |
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写真 右:正面だけではなく、北側に続く銭瓶町橋高架橋の梁も大きなハンチに改築されている。 | ||
銭瓶町橋 遠望 | ||
橋台の高さは、旧C部に合わせて造られているようで、新幹線部分は少し嵩上げされた形で桁が載せられている。 |
TX 部分 | :1991(平成3)年6月:東北新幹線 東京駅乗り入れ |
C部の詳細記述で多くを掲載したので、ここでは簡潔に。 |
山手線の外側から 2012.1.30. |
工事中の 東北新幹線新設工事(1989年の空中写真、再掲) | ||
1989(平成元)年度 国土交通省/国土画像閲覧システム/CKT-89-3 より |
東海道新幹線 16~19番線 東北新幹線増設工事 |
東北新幹線用の桁 TX部 その1が架けられた。桁の製作年は 1987(昭和62)年。 駅では東海道線用の第六ホームが改造されて、まず新幹線用の12・3番線が造られた。東京駅からの東北・上越新幹線は 当初一面のホーム2線で開始された。(現在は 22 ・23 番線に改称) C部は 1974(昭和49)年頃に架け替えられた2線のまま。 |
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1991(平成3)年:東北新幹線 東京駅乗り入れ。 1997(平成9)年10月:長野新幹線開業のため、ホーム・線路を増設 |
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長野オリンピック開催に合わせて 長野新幹線を 1997年10月に開業するため、ホーム・線路を増設した。(二期工事と呼ぶ) まず 東京駅の 山手線内側(本屋駅舎側)の3階相当部分に、中央線の新ホームを造って 中央線ホームを空ける。 空いたホームに東から西へ2線ずつ 順次路線を変更して、最終的に空けた第五ホーム部分を新しい新幹線用ホームに転用した。現在の 20・21番線である。 2線増えた新幹線のホームに入線するために、C部の桁を解体・移設し、TX部に桁を増設した。線路は呉服橋架道橋手前で一回目の分岐、次に呉服橋架道橋上にもポイントを設置して二回目の分岐を行い、呉服橋を渡りきる所では ほぼ4線となっている。 |
現在の状況 2010.5.14. | ||
↓一回目の分岐 架道橋上で二回目の分岐↓ | ||
当初の2線 後からの増線 1本残された C部の桁は不使用 ←東北縦貫用 京浜東北線・ 山手線計4線 中央線2線 |
あまりに真下にあるため、全部は 写せていない。 |
D部の下、東京方向を見る | 神田方向を見る | |||
C部の桁 北に向かう道路 |
I-2 I-1 |
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I-2 I-1 |
Ⅱ |
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増設された桁 ↑ |
新幹線 TX 部は橋台が無い | |
新幹線一期工事 2本目の桁:I-2 新幹線一期工事 3本目の桁:I-3 二期工事の桁:Ⅱ. 旧C部の桁 |
神田側の元C部の橋台を、山手線の外側から見ている。前掲写真のように、新幹線一期工事は「道路の真ん中」に柱を立てて建設した。東京側のように、通常の橋台を造ると道路をふさいでしまうため、横に渡した梁に3本の桁を載せている。 |
増設された桁(左)と既存の桁 | ||
4本目の桁の製作年は 1996年(平成8年) |
桁同士の隙間にもカバーが掛けられ、道床は一体となっている。 |
位 置(終戦後の様子) |
龍閑川 1947(昭和22)年7月の空中写真 / 国土地理院 |
神田駅 外濠 東京駅 |
■ 呉服橋 架道橋 データ | |||
位 置: | 千代田区大手町二丁目 東京駅より 366M 13 (C部の表示) | ||
管理番号: | 1 (東北線) | ||
道路名: | 永代通り | ||
線路の数: | 12 線(下記 H~TX は仮の呼び名) | ||
H:2線: 中央線 A:4線:現在は 京浜東北線、山手線 B:2線: 旧東北本線 → 上野東京ライン C:元東京駅引上げ線2線、現在は桁のみ TX:東北上越新幹線 3線から4線に分岐 | |||
総径間: | H 55m、A 35m、C 39m、TX 40m | ||
空 頭: | 高さ制限:4 m | ||
履 歴: | A:1910(明治43)年 新永間 竣工 1919(大正8)年 中央線開通 1925(大正14)年 山手線開通 B:1921(大正10)年 橋台のみ 1922(大正11)年頃 架橋 1953(昭和17)年頃 嵩上げ C:1951(昭和26)年12月 増線 1974(昭和39)年頃 桁の架け替え 東北新幹線増線のために移設 TX:1991(平成3)年 東北新幹線東京乗入れ 1997(平成9)年 ホーム増設による増線 |
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備 考: | 竣工時の名称は「呉服橋」 | ||
名前の由来: | 付近の橋の名に由来する。 | ||
参考文献1. 2. 3. 4. |
『東 工 第37巻 特集号』東工編集委員会 / 日本国有鉄道東京第一工事局 / 1987 『東京駅における鉄道輸送機能の発達』丹羽俊彦 / 土木史研究 第10号 / 1990 『東京鉄道遺産をめぐる30 帝都の赤絨毯 -新永間市街線 その1-』小野田滋 / 鉄道ファン / 2012 同 その2 |
呉 服 橋 |
1948(昭和23)年3月 米軍撮影/国土地理院 |
江戸時代に外濠に橋が架けられた時、付近に「越後屋(現在の三越)」など、多くの呉服屋があったために名付けられたもの。 外濠は 空襲で発生した大量の「瓦礫」で埋められた。終戦から3年近くが経ったこの写真では、まだ呉服橋○も 八重洲橋も残っている。 |
1916(大正5)年頃の呉服橋 |
呉服橋交差点の、鉄鋼ビル工事現場に掲示してあった写真より 出典は不明 |
呉服 の由来 |
呉の織り方で織り出した布帛(ふはく)。くれはとり の事。 |
呉織:くれはとり、(呉機織り クレハタオリ から): 大和朝廷に使えた渡来 系の機織り技術者。雄略天皇の時代に中国の呉から渡来したという。 あるいは 呉の国の技法(を伝えて)織った、綾などの織物。 |
綾、綾織り:経糸(たていと)に 緯糸(よこいと)を斜めにかけて模様を織り出したもの、その織物。 |
呉服屋:江戸時代にあっては 主に絹織物を売る店。 布を売る店であって、仕立て屋は別 ということだ。 |
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