山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋
東 京 駅

旧 第 二 乗 降 場
2017.9.1  2016年の改修を追加

東京駅は 1945年(昭和20年)5月25日の空襲で焼夷弾を浴び、丸の内駅舎の屋根は焼け落ち、内部もほとんどが焼失した。 その他、第一 ・第二ホームの大半、第三・第四ホーム上屋の一部を失った。
焼け落ちた東京駅
『首都東京大観』/1957/東京都観光協会 より、著作権は切れている
撮影日 不明。 写真は有楽町方向を見ている。 第一 ・第二ホームは南端(有楽町側)だけが焼け残り、屋根の一部が修復された状態(白い部分)である。 一方で 第三乗降場の神田寄りには、屋根が焼けて 鉄骨の骨組みだけが見える所も残っている。

ほかのホームがすべて造り直されていた中で、「 旧第二乗降場」 (5 ・6番線)には、2016年まで、建設当初のオリジナルの柱や 戦後の木造上屋が残っていた。 1914年の東京駅竣工から 100年以上、また 上記の空襲後の仮設的な木造上屋からでも 70年。 地盤沈下もあって、上屋は波打っていたので改築はやむを得ない。

以下は、2014年以前に取材したもの。 改修後の姿は文末に。


現場にふられている柱番号とは逆になるが、本ホームページの進行方向に従って、神田側から見ていこう。

神田寄りから有楽町方向を見る
手前の鉄骨造は 10両編成時に増築された部分。 奥に木造の骨組み。


終戦直後に復旧されたホーム上屋。 80年以上を経ている。
木造柱の太さは 約 150 ミリ角。 計 23 組、46 本。






オリジナルの 柱 と 架線ビーム


旧第二乗降場 現在の 5 ・6番線の有楽町寄りに、架線用ビーム3本と、オリジナルの柱 6組12本、離れた場所にもうひと組 2本の 計14本が残っている。 空襲でも焼けずに あるいは 焼けながらも残ったものである。

今も使われている 3本のビーム
現4番線から 第二乗降場を 神田方向に見ている。 鉄道遺産を強調するためにきれいな緑に塗られている。 すべて左側に連続していたが、第一乗降場を改修する時にカットされた。
竣工当時の写真
『東京市街高架鉄道建築概要/鉄道院 東京改良事務所/1915年』より
左側の第一乗降場(現 3 ・4番線の位置)の柱と連続していたのがわかる。 の印は上の写真と同じ位置に付けてある。

 有楽町寄りに現存する 架線用ビーム
  第二乗降場                第三乗降場と荷物用エレベータ
東京駅改修工事現場に掲示されていた絵はがき写真。 神田方向を見ている。

空襲で焼け残った状態
前掲 『首都東京大観』/1957/東京都観光協会 の部分拡大
有楽町方向を見ている。 が架線ビームを載せている柱。

竣工当時の 架線ビーム・・・・の位置




第二乗降場


第一乗降場



丸の内駅舎
有楽町→
『東京市街高架鉄道建築概要/鉄道院 東京改良事務所/1915年』より
現在残っている ビーム と 柱。  番号は現場にふられている現在の柱番号。


架線柱 23番            2012.2.10
4番線から 神田方向を見ている。 左側はカットされている。
7番線から 有楽町方向を見る。 端部までオリジナル。
現在の柱番号は23番。 架線柱はほかの柱よりも太く、緑色に塗られている。 プレートにある「構本」は架線柱に付ける略称のようだ。 「本」はメインの柱の意味だが、同等の柱の場合でも 二本以上の柱がある場合は どれかが 「本」となり、その他は 「副」 あるいは 「副-1」などとなる。 「M. 44」は 明治44年だろう。 本屋の鉄骨建て方が完了した年だ。

ここは 1945年(昭和20年)5月25日の空襲で焼けたところだが、架線柱とビームは再利用した。 焼け落ちた後、屋根は敗戦まで無かったようだが、戦後すぐに木造で復興した。 木造部の柱スパンは 約 4.5mで、鋳鉄柱のスパン 9m の半分である。

完全復興した東京駅 1947年3月
 神田 有楽町
1947年(昭和22年)7月24日の空中写真/撮影は米軍/国土地理院
空襲から2年後だが、駅舎も 3階を取り除いた形で修復された。
が現在 一部残っているビームである。 この時点では神田側にもう一本あるように見える。


空襲で焼け残ったのは 柱番号15番までであった。

柱番号 15番


神田

神田方向を見ている。 第二乗降場の南側(写真では右側) 約 50mが 燃えずに残った。 ここから神田側(北側)は鉄製アングルトラスの「桁」が無く、「頬杖・ほおづえ」が 4本付いた 木造の柱が並んでいる。
柱番号 15番 の軒

神田

幅の広い
野地板



母屋

幅が狭い
野地板
6番線側に突き出た「軒先」を見上げている。 右側がオリジナルで、「母屋(もや、横材)」は面取りされて 2本の化粧目地が入っている。 100年近く経っている事になるが、本当にオリジナルなのかと疑いたくなる きれいさ。

野地板(のじいた)の幅の違いに注目。 右側の母屋 より下 が左側と同じである。 左上をオリジナル(の幅)とすれば、ここの軒先は焼けた所を改修したものだろう。


架線柱 14番             2012.2.10
これも 第一乗降場(現 3 ・4番線)まで連続していたが、左側はカットされた。 端部に取り付けられた Γ 型の金物は、架線を左側から引っ張るもの。 ここから有楽町方向の線路が 緩く右側にカーブしているためである。
4番線から 神田方向を見ている。

ボルト・ナット が使われているので、近年の補修がはいっているようだ。
7番線から 有楽町方向を見る。 後ろは 新築の 中央郵便局。


焼けなかったオリジナル部分 柱番号 12番ほか     2012.2.10.

竣工当時の写真
『東京市街高架鉄道建築概要/鉄道院 東京改良事務所/1915年』より
第二乗降場、乗車口通路からの階段を登ったところから、北(神田方向)を見ている。 吊りものは照明器具と時計だけ というシンプルさ。

右から3番目の少し太い柱が 「 架線柱」 で、現在残っている柱のひとつ、柱番号 14番である。 (カーソルを乗せると で示す。)

竣工時の写真
第一乗降場
 
東京駅改修工事現場に掲示されていた絵はがき写真
第一乗降場で 有楽町方向を見ている。
次の図面とともに 柱の基部に注意しておいていただきたい。
                       (後述する「波打つ軒先」に 関連がある)

ホームのデザインは 5年後に開業する神田駅と同じである。 ホームの幅が違うのでプロポーションは異なるが、鋳鉄製の腕木をターンバックルで繋 ぐなど、東京駅のデザインそのままである。 しかし 神田駅は関東大震災で全焼してしまい、昭和初期にアングルトラス構造の上屋で再建された。 それが 東京駅には残っている。
神田駅 のホーム上屋 断面図
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要/鉄道省 東京改良事務所/1920年』
同 部分拡大

ターンバックル

柱上部


波打つ 軒先             2012.8.14
14番の架線柱の南側に 鋳鉄製のオリジナル柱がさらに4本の残っている。 空襲でかろうじて焼けなかった部分であるが、軒が波打っていることから、構造物が不等沈下したことがわかる。 特に、12番の柱と 軒 が大きく沈下している。 

反対側 (山手線の内側)から
水平な湘南電車をガイドにすると 極端に下がっているのがわかる。 測ってみると このスパンだけで、27センチもの差があった。 床はほぼ水平。
12番 11番
これらの オリジナルの柱は鋳鉄製で、製作年は 1908年(明治41年)1月である。

11番の柱 6番線側

神田駅の図面からすると、前掲写真の上部でリング状にリブが付いている所 ()は、ホームから 80センチぐらいの所にあった。
それが 12番の柱ではほとんど埋まっている。 第一の原因は地盤沈下だが、もうひとつは、元のホームが「客車用」の 76センチだったからではないだろうか。 竣工当時の写真集を見ても、ホームが低かったことが伺われる。

現在のホームのレールからの高さは 110センチなので、その嵩上げだけで 34センチは埋まることになる。 元のリブの高さが 80センチだとすると、残りは 46センチとなり、10番の柱のリブの高さ現状の 43センチに近くなる。 あとは沈下分だろう。
とにかく 12番だけはひどく沈下している。


10番 の柱
この柱が竣工当時は南側の端部だった。 現在でも実質的にはホームの端であることは、御影石の舗装がないことからも。
柱の上部を見ればはっきりする。 右側には柱をつなぐアングルトラスが無い。
ところが、ここは ずっと早く、戦前から右側(有楽町側)に延長されていた。

竣工時の写真 1914年(大正3年)
                               ↑ 10番の柱
終戦時 1945年(昭和20年)
前の写真とは反対側から。 ↑ 第二乗降場
が増築部。 屋根の古さから、戦前どころではなく 相当に古いことがわかる。
2012年 の 状況
が 竣工時の、およその軒の出。
片持ちではもたないので、古レールの柱を設けて屋根を延長した。 
母屋にはオリジナルと同じような目地が切られているので、分かりにくいいかも知れない。 野地板をよく見ると、増築の継ぎ目がわかるが、昭和初期に行われたのではないだろうか。

ここにはエレベータがあり、現在でも車いすの人はこれを利用する。

軒先には、オリジナルを移設したと思われる破風飾りが付いている。
 (本当にオリジナルかどうかは 未確定)

立ち入り禁止区域なので隣のホームから、前掲写真とは反対側の写真。 古レールに載せられた木製のトラス部分は オリジナルではない。 一度ここまで屋根が延ばされ、その後に写真左側を再延長したのだろう。 屋根が段違いの「増築仕様」になっている。


9番の ラチス柱とビーム
7番線から。 竣工時はホームからはずれた位置にあったために、屋根のない架線柱として造られたもの。 後から設けられた屋根の下はアイボリー色のまま。
後年の太いビームと違って 柱や梁のサイズが小さい。 半円形のデザインが付いた柱は、新橋にも残っている。 端部を次第に細くしてあるのは、構造的な理由よりも デザインからだろう。 製作は面倒になる。
4番線から。 右側はカットされた。

 

古レールによるホームの屋根

空襲の被害の写真で触れたが、第二乗降場の有楽町側に 早い時期に延長されたホームは、バックヤードとして使われている。 一度も乗降場としては使われたことが無さそうだ。

立ち入り禁止区域であるために詳しい観察はできず、建設時期も未確定であるため、数枚の写真にとどめる。

古レールをダブルに使った柱が 9本ある

梁のデザイン
5角形のプレートをつけたデザインは、旧烏森駅(現新橋 1909年 明治42年 開業)や 有楽町駅(1910年 明治43年 開業)に残っているものに似ている。

それらは東京駅の竣工以降に造り直されたものと思われるので、今後歴史を調べていけば、この上屋の建設年代もわかってくるだろう。
1936年(昭和11年)の空中写真では まだできていないように見えるが、未確定である。 すべて リベット接合。

いずれにせよ、山手線と京浜東北線が線路を共有していた時代に延長されたので、当時は ●● のように、2線隣の線路につながっていた。 ホームの形状がその名残である。

1956年(昭和31年)11月以前の線路
京浜東北線南行き             第二乗降場

 

新 第 二 乗 降 場
2017.9.1  2015年の改修を追加

5 ・6番線上屋の建て替え工事は、2014年の夏から始まった。

既存屋根を突き抜ける 新しい柱    2014.12.31
当然ながら、基礎の工事はもっと早くから行われているが、屋根だけなので、それほど大がかりな基礎は必要としない。

丁度、東京駅開業100周年記念ラッピング山手線が。 運行期間は2014年10月11日から 翌年3月31日 までだった。

持ち去られた 10番の柱
保存のために、一対の柱が切り取られた。 
以前の姿。



新しい上屋は W型で、折板屋根

永久保存版
残念ながら 木製の梁は切られたまま。 電線ラックは仕方ないとしても、どうせ保存するなら もっと完璧にやればいいのに・・・・。



解体を待つ。 2015年7月15日 撮影。


タイトルの地図について : 地図サイズ 299×94
明治42年(1909年)測図、 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図
「日本橋」に加筆          大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行

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