山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | |
東 京 → 有楽町 |
2. 鍛冶橋 架道橋 |
鍛冶橋架道橋は 東京駅を挟んだ呉服橋架道橋と同じ造りであり、建造年もほぼ同じ。名称の由来も外濠に架かっていた橋「鍛冶橋」であり、外濠が埋められてしまった結果
橋そのものが消えてしまった運命といい、呉服橋とは双子の兄弟の架道橋である。 また管理番号も、呉服橋架道橋は東北本線の1番、鍛冶橋架道橋は 東海道本線に架かる最初の橋。 鉄道発祥の地である新橋(汐留)、本ホームページのスタート地点 品川に向けての再スタートとなるが、いったい大阪までの間には 幾つの架道橋があるのだろうか。 |
鍛冶橋架道橋 遠 景 2010.8.12. |
山手線の内側から。 |
有楽町側から東京駅を見る 2010.12.19. |
左手前 山手線が渡りきろうとしている所が 鍛冶橋架道橋。 |
山手線の内側から 以下のような仮称を付ける。 |
A部 L部 T部 TS部 |
:現京浜・山手線 4線 :東京駅引上線跡 1線 :東海道本線 2線 :新幹線 2線 | :1910(明治43)年9月15日 開通 複線3主桁が 2組 :1955(昭和30)年頃 :1952(昭和27)年頃 増線 :1964(昭和39)年 開通 |
→ TS部 |
A 部分 |
旧山手線・東海道線の4線 1910(明治43)年9月開通 現在は山手線・京浜東北線の4線 |
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全 景(山手線の内側から) 2012.5.4. |
全長36.5m を ほぼ3等分した3径間の形。両側には歩道があるので、車線は各2車線、中央部は手前の交差点で右折する車線があるために、3車線である。 |
近 景(山手線の内側から) 2012.1.30. |
有楽町方向を見ている。3本ひと組の橋脚は4セットあるが、オリジナルの細いロッドによるブレースは、すべて太いものに交換されている。 |
橋脚の下端に付いている横材はオリジナルで、その隅にブレースが取り付けられていた。 ( カーソルを乗せると○を表示、断面図参照 ) (呉服橋架道橋には オリジナルのブレースが残っている。) 下から見たのではわからないが、複線 3主桁の場合、中央の桁▼は2線同時に電車が通過する場合に 両側▼より大きな荷重がかかるので、桁の背が高い(大きい)。 |
東京駅側橋台 2013.3.21. |
隅石もきれいに残っている。レンガの橋台は4線分一続きではなく、2線分がセットとなっている。 |
有楽町側の橋台 2013.3.21. |
2012年までは 100年以上前のオリジナル 煉瓦が生きていたのだが、いたずら書きを消すために表面が削られ、つやのある塗装がなされてしまった。 |
2010.8.12 | |
この写真を撮った時は まだオリジナルのレンガの状態。雨水で錆が流れ出るので、決してきれいな状態ではなかった。左は中央部の「隅石」。4線同時に施工したのだから 2線ずつに分ける必要はないのだが、雨樋を納めるためだけでなく、デザイン的な考慮も働いている。 |
それはともかくとして、橋台の上部が変更されているのが気になる。 本来、上部には御影石のボーダーがまわっていて、そのうえに桁を据え付ける台があるのだが、全部がコンクリートのかたまりとなっている。 かといって、桁がリフトアップされたわけでもなさそうだ。 |
⇧ |
参考:呉服橋の橋台上部 | |
鍛冶橋 平面図、立面図 |
有楽町駅側 山手線の外側の立面 東京駅側 |
『東京市街高架鉄道建築概要』 鉄道院 東京改良事務所/1915年、次の断面図とも |
断面図 |
複線桁、東京駅方向を見ている |
山手線近距離電車分離 | 『「東工」90年のあゆみ 』より |
1949(昭和24)年12月に始まった 山手線・京浜東北線の複々線化は、それまで長い間2線を共有していた両者を完全に分離するための工事である。 戦前の工事も含めて、市街地である田町- 田端間に2線を増線するのは大変だっただろう。 昭和31年の竣工までに約7年間かかっている。 |
まず先行して、1949(昭和24)年11月から「東京駅引上線新設工事」として、呉服橋架道橋-千代田町架道橋間 700mに高架橋を新設する工事がスタートする。工期は2年間。 |
その他の工事は2期に分けられたが、2期といってもほぼ同時並行して進められた。 一期工事の主な項目は、新橋・有楽町各駅にホームを1面増設、東京駅有楽町側および神田側に高架橋を新設、東京駅手小荷物扱い所新設、東京駅ケーブル地下道新設、東京駅第6・7ホーム新設、上野駅第5高架ホーム新設、など。 鍛冶橋架道橋T部分も含めて 1954(昭和29)年4月に完了して、国鉄悲願の縦貫線が完成し、常磐線が有楽町まで乗り入れたそうだ。 |
二期工事は 複々線運転開始に伴う工事で、田町・浜松町間 旧計画の立体交差除去工事、浜松町ホームPC上屋新設、東京駅構内高架橋新設、鍛冶橋架道橋(S部)増設、東京-上野間高架橋および架道橋の増設、神田・御徒町・日暮里各駅にホーム1面増設、上野駅高架10番線増設、上野-田端間路盤構築、など。 1956(昭和31)年11月には すべての工事が完成して、分離運転が開始された。 |
T(toukaidou)部 | :1953(昭和31)年11月 開通、現東海道本線 |
桁の製作順に掲載するため、東側のT部が先になる。 | |
上記「田町-田端間線路増設工事」の一環として施行された。 銘板(桁の製造年)は1951(昭和26)年。A部 1910年頃からは 40年も後の製作だが、ほぼ同じデザイン、3径間、リベット止め の構造である。 |
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東京駅方向を見る 2010.8.12. |
違いは、当時の東京駅への配線の関係で、線路が平行ではなく角度があるために、複線桁ではなく単線が2本となっていること。ブレースはボルト止めで、後から取り付けられたものだ。 |
装飾部分のデザインが A部と比較してシンプルになっている。 ベースが8角形なのは変わらないが、リブが付いている。 |
山手線の外側から 2012.1.3. |
新幹線の桁下から。JR東海のホームは東京駅の東端にあり、鍛冶橋では東海道本線と大きく離れている(トップの写真 参照)。 |
東京駅側の橋台 2013.3.2. |
山手線の外側から内側、東京駅方向を見ている。ここから北は高架橋ではなく 土を盛った築堤なので、擁壁を兼ねた橋台となっている。斜めになっている所が、2線の間の部分。 |
有楽町側の橋台 2013.3.21. |
山手線の外側から 有楽町方向を見ている。 柱・梁形式で、2スパン と 小さなスパン(L部引き上げ線)が連続しており、同じ時期に施行されたことを示している。東京駅側に比べて橋台の横幅が狭い。 |
L(lead track)部 | :T部と同時期に開通 |
元は東京駅引き上げ線、現在は不使用、線路もなし。 桁の製作年は1955(昭和30)年。製作年が1951年であるT部よりも 少し後で、時間差がほとんど無いのに、橋脚のデザインが大きく異なる。 |
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上から見た L部 |
右端に コンクリート製の車止めがあるが、架道橋上の線路は撤去されている。東京駅側▼には残っているが、その手前に鉄塔が建てられているので、長い間使われていない事がわかる。 |
東京駅側の橋台 | デザインの異なる橋脚 2010.8.12. |
ふたつの桁の間隔は有楽町側も変わらないのに、東京駅側の橋脚は2本脚、もう片方は1本である。 |
このような構造が採用された要因として、 |
・A部とT部に挟まれた狭い場所に造られた ・このため 桁の幅はT部の半分ほど ・従来の橋脚ではその間隔が狭くなり、ブレースを入れても 効果が発揮されない ・新橋寄りの橋脚では、基礎が T部の橋脚と近くなりすぎる |
などが考えられる。 |
橋脚基部 正 面 | 側 面 |
ベアリング支承のようだが、線路と直交する方向はピンでロックされており、門型の剛性を高めているようだ。正面側の鋼板の厚さは 約30mm、ベースは6角形。 |
下部がピン構造なので、側面にかかる曲げモーメントは少ないが、開けられた穴のサイズは小さめ。構造的な面よりも、開口部がないとリベットが打てない、という理由の方が大きい。 |
京浜東北線南行きから 2013.3.21. |
L部の道床(どうしょう)レベルは両側よりも高い。これは、東海道本線ホームの新設にあたって駅構内が高架化されたときに、旧線よりも高架のレベルを高くしたためで、留置線は ブレーキが効かなくなっても車両が動き出さないように「水平」とするため、L部はA部4線よりも高くなっている。 |
TS 部分 | :東海道新幹線2線:1964(昭和39)年10月 |
TS は Toukaidou Shinkansen の頭文字 | |
東京オリンピック開催に合わせて10月1日に開通。このため 工事や桁の製作はそれよりも早く、ここの銘板は1963(昭和38)年。 | |
山手線の外側から 2012.1.30. |
同じく3径間だが 車道部分には橋脚がない。 |
東京駅方向を見る 2012.3.8. |
新幹線の桁の銘板 |
昔の四角い銘板ではなく、「N」の文字と楕円のふたつに分けられている。 桁の形式 WVB-N41(3) -1 は、W:溶接、VB:合成桁、N41:総径間 41m、(3):3径間、 -1:複数ある桁のひとつ目、を表している。製作年は 開通の前年である 1963年。 |
位 置(終戦後 まだ4線の状態) |
1948(昭和23)年3月の空中写真/国土地理院 |
東京駅 有楽町駅 |
■ 鍛冶橋 架道橋 データ | |||
位 置: | 千代田区大手町三丁目 東京駅より 412M 39 (B部の表示) | ||
管理番号: | 1 (東海道線) | ||
道路名: | 鍛冶橋通り | ||
線路の数: | 8線 (下記 A~C、S は仮の呼び名) | ||
A:4線:京浜東北線山手線 L:1線:元 留置線、現在は線路無し T:2線:東海道本線 TS:2線:東海道新幹線 | |||
総径間: | A:36.36m、T:37.85m、TS:41.20m | ||
空 頭: | 高さ制限:3. 8 m | ||
竣工年: | A:1910(明治43)年9月 開通 L:1955(昭和30)年 頃 T:1951(昭和26)年 頃 TS:1964(昭和39)年10月 開通 | ||
名前の由来: | 付近の橋に由来する。 | ||
鍛 冶 橋 |
終戦後の 鍛冶橋 | ||
東京駅 操車場 |
1948(昭和23)年3月 米軍撮影/国土地理院 |
道路の中央 白い部分は市電。外濠は 空襲で発生した大量の「瓦礫」で埋められた。終戦から3年近くが経ったこの時期には、まだ呉服橋や鍛冶橋が残っていた。 |
1915年(大正4年)6月発行の 『土木学会誌』 第一巻 第三号に、架け替えられた鍛冶橋について 樺島正義氏による詳しい工事報告が載っている。土木学会の掲載許可が得られたので、図面や写真をお借りする。それぞれ加筆 ・修正を加えてある。 |
鍛 冶 橋 撮影日:1914年10月23日. |
開通を翌日に控えた日の撮影。西から東方向を見ている。向こう側には祝典のためのゲートやテントがあり、紅白の幕も張られている。 |
鍛 冶 橋 撮影日:1915年2月5日. |
竣工後3ヶ月後の姿。手前 左側に旧橋があった。新橋は鉄筋コンクリートという新しい技術を導入しながら、昔の石橋のデザインで造られた。写真は南側から撮影されており、後方には 前の年に開業した東京駅のドームや操車場の車庫が見えている。撮影者は当然、東京駅を意識的に背景としたに違いない。 |
鍛冶橋 諸元 |
着 工:1913(大正2)年6月 開通年月:1914(大正3)年10月24日 橋 長:30. 9 m 構造形式: C上路固定充腹アーチ橋 設 計 者 :樺島 正義 仕 上 げ :花崗岩で表装 特 記:1950(昭和25)年に埋立撤去。 わずか35年間の命だった。 |
鍛冶橋 平面図 | ||
← 東京駅 北 |
南 |
本ホームページの進行方向と合わせるために、学会誌の掲載図を180度回転して、「正面写真」と同じ向きにしている。 |
旧 鍛 冶 橋 撮影日:1913年6月24日. |
この橋が竣工したのは1876(明治9)年9月だった。幅、長さともに新橋の 約半分で、両岸を台形に迫り出して造られていた。 上の図面にカーソルを乗せると、点線の旧橋の位置を示す。 新旧両者の位置関係からして、新橋の完成後に取り壊されたものと思われる。旧橋も38年間の短い命だった。 |
撮影は新橋の着工日前後で、東から西方向を見ており、背景には 焼失前の東京市庁舎が写っている。ということは、その前に一部見えている水平の壁が、第四有楽町橋高架橋ということになる。カーソルを乗せると ▼ を表示する。 |
1883(明治16)年測量の地図によると、鍛冶橋の東側には「南鍛治町」「西鍛治町」が並んでいる。橋名には「冶」の字が使われているにもかかわらず、町名は「治
おさめる」が使われている。 ほぼ同じ位置から、130年後の現在の様子を・・・。 |
東京国際フォーラム ガラス棟 |
鍛冶 の由来 | |||||
カヌチ(金打)の約転。「鍛冶」は当て字 。金属を打ちきたえて種々の器物を作ること。また、それを業とする人。『広辞苑』 | |||||
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金打、カネウチ が カヌチ → カジ と転訛したもので、金属をきたえる「鍛」の音は タン、金属を溶かす「治」の音は ヤ しかなく、かじやの意味を込めた当て字である。。 | |||||
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タイトルの地図について : 地図サイズ 299×94 |
明治42(1909)年測図、 大正5(1916)年 第一回修正測図 1万分の1地図 「日本橋」に加筆 大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行 |
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