山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋
東 京 → 有楽町

有楽町の名が付いた橋が、有楽町駅の前後 長い区域にまたがっている。 高架橋が4つ、架道橋は3つで、現在の地番とは食い違っているが、建設時には確かに全域が有楽町だった。 重複を避けるためにまず地名の由来と、一連のレンガ造の高架橋の構造について説明しておく。

有楽町駅付近の高架橋      2010.8.12
 
有楽町の地名について

1916年(大正5年)修正測図 の1万分の1地図



東京駅










大日本帝国陸地測量部/国土地理院 掲載サイズ 400 × 297
ホームページの進行方向に従って 地図を回転してある。 有楽町の名が付いているのは、前項「2.鍛冶橋 架道橋」 と 帝国ホテルの手前 「山下橋架道橋」に挟まれた区間である。 外濠の東側は細かく割られた町名なのに、この地はなぜ広大な範囲が有楽町となったのか?

1865年(慶応元年)頃の 有楽町
前掲の地図とはスケール・表示範囲が異なる。 

江戸時代が始まった頃は、東京湾が日比谷まではいり込んでいたそうだが、江戸城の整備と共に埋め立てられ、城の正面に当たる大手門前と 西の丸大手門前は「御曲輪内(おくるわない)、大名小路」と呼ばれていた。 上図はその一部であるが、親藩 ・譜代大名の広大な上屋敷が並び、南角には南町奉行所もあった。

維新後はすべて国有地となり、新たに 銭瓶町・大手町・永楽町・八重洲・有楽町などの町名が付けられた。 いずれも従来の町場に比べてひとつひとつが広い範囲だったのは、割り振られた公官庁や陸軍などの施設も敷地面積が大きくて、細かな町名を付ける必要が無かったためだろう。
その「 有楽 」の地名の由来は、織田信長の末の弟 織田 長益(有楽斎:うらくさい 1547-1622)が、家康から数寄屋橋付近に屋敷を拝領していたため、と言われているが、史実は判明していないようだ。

有楽町付近の高架橋 ・架道橋 名称
山下橋架道橋
 
鍛冶橋架道橋







1916年(大正5年)修正測図 の1万分の1地図 / 国土地理院
東海道本線・山手線の工事は 新銭座 から 東京駅に向かって行われたために、高架橋などの番号は新橋方面から付けられた。
山手線の内側から 以下のような仮称を付ける。 
   
   
   部 -2

   
: 4線
: 2線
 同 上

: 新幹線
 : 1910年(明治43年)9月竣工
 : 1942年(昭和17年)7月までに増線
 : 1954年(昭和29年)4月までに増線
      (第四高架橋の一部のみ)
 : 1964年(昭和39年)開通

場所によっては 新幹線部分が 部となることもある。



レンガアーチ橋(拱橋)の構造
新橋までの各高架橋に共通となるので、A部の構造についても まとめておく。

当時日本では高架橋の設計・施工の経験がなかったために、ドイツからフランツ・バルツァーなどが招聘され、基本設計が行われた。 その計画案は、バルツァーの帰国直後に ドイツ技術者協会雑誌に 『Die Hochbahn von Tokio』 として掲載された。 詳細設計は、それをもとにして日本側で行われている。

バルツァーによる高架橋断面図

『Die Hochbahn von Tokio』/Berlin im Dezember 1903 より

高架橋の竣工後に発行された『東京市街高架鉄道建築概要/鉄道院 東京改良事務所』/1915 を見るとほぼ同じ形である。 高架橋の幅も 同じ 15.6 mだが、道床の位置を下げて パラペットの立ち上がりと手摺りを付ける形とした。

スパン 12mの部分(主に有楽町-新橋間)の側面デザインは、ベルリンのシュタットバーン(S-Bahn)を参考にしたと言われており、Wikipedia に格好の写真が掲載されている。 橋脚部にあるレリーフ(浮き彫り、小さなアーチ)までそっくりで、外濠に面した部分では、高架橋と水面の取り合わせも一致していた。
ベルリン シュタットバーン  ヤノヴィッツ駅     ( Wikipedia より )

竣工後の 新永間市街高架鉄道
『東京市街高架鉄道建築概要/鉄道院 東京改良事務所/1915年』より
山手線の外側から 東京駅方向を見ている。 開口が見えているのが内幸橋架道橋。

高架橋 横断面図
『東京市街高架鉄道建築概要/鉄道院 東京改良事務所/1915年』に加筆

バルツァーの帰国後に、新永間建築事務所の2代目所長 岡田竹五郎が指揮監督して工事が行われた。

江戸時代は海だった所も含めて 軟弱地盤に対処するため、大量の松丸太を使った杭の上に レールを何層にも積み上げた慎重な載荷試験が行われた。 

参考 : 丸ビルに用いられた「松杭」の実物
新丸ビル工事の時に撤去された 松杭。 斜めにカットされているが、直径を測ると 丁度 30センチだった。 ( 資料の所有は 日本交通協会 )

レールを積み上げた 載荷試験
『東京市街高架鉄道建築概要/鉄道院 東京改良事務所/1915年』
左うしろは 明治期の帝国ホテル。 いずれも「内山下橋 高架橋」の現場。 この後、良質のレンガを丁寧に施工して連続アーチが造られた。 
 
外濠沿いの工事の様子
左側の堀は、一時的に作業場として大部分が埋められている。

アーチ形式高架橋(拱橋)の大部分はレンガ造なのだが、上部には無筋コンクリートが充填されている。 東京駅の北側 銭瓶町橋高架橋に切断面がある。

銭瓶町橋高架橋 最北端部         2011.8.25
純レンガ造ではなかった レンガ造高架橋     2010.2.2
最上部のコンクリートは、切断後に新しく打たれたもの。

図面をよく見ると、確かに波打つ上面に「二重線」が引かれている。 それが敷並べられたレンガだろう。 アーチ部との間のハッチング は、粗い斜め線となっており、材料の種類が違うことを示している。 無筋コンクリートは設計に織り込まれた 当初からのものだった。
『東京市街高架鉄道建築概要』 鉄道院東京改良事務所/1914
図は内山下橋 高架橋のもの。 5スパン程度ごとに 右側の幅広の橋脚が設けられた。

橋脚部の小さなアーチ内部は空洞 (断面図の印) になっている。 デザインだけなら、表面の浮き彫りだけで中は埋めてもよいのだが、空洞にしても荷重的には耐えられるので、使用材料を少なくする工夫だったのだろう。
ネコなどが入らないように鉄製の扉が付いている。
写真は 内山下町橋高架橋。 鉄扉が錆びて外れてしまった所を覗いてみた。
図面の通り 奥は行き止まりで、レンガの積み方は 意外と雑だった。

アーチの補強工事
関東大震災での被害は少なかったそうだが 各所で不等沈下は免れず、1935 年(昭和10年)を筆頭に長年にわたって「補強工事」が行われた。 補強はひび割れなどが生じた場所を選んで施工されているので、現在でも未施工箇所は多い。 
2011年の東北大地震をきっかけとして、レンガ造や初期のRC造はすべて補強する方針となり、必要箇所では借り主に明け渡し要請が出ているようだ。

補強工事の詳細については「番外.新銭座-永楽町間 東京市街高架鉄道建設工事と補強工事」を見ていただきたい。


タイトルの地図について : 地図サイズ 299×94
明治42年(1909年)測図、 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図
「日本橋」に加筆            大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行

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