山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | |
東 京 → 有楽町 |
番外.地下鉄 丸の内線 |
渋谷駅の3階を直交する銀座線は正式に取り上げているが、ここの地下を通る丸ノ内線は まるでその存在がわからないので、番外とした。 |
地下鉄が山手線を く ぐっている場所は無数にあるが、一般的には道路の下であり、最近は「大深度」。 また掘削方法も「シールド工法」であることが多い。 ところがこの地は高架橋のまっただ中、しかも昔の地下鉄で深さがないので、レンガアーチなどを仮受け
・補強して通された。 地下鉄丸ノ内線 池袋 - お茶の水間が開通したのは 1954年(昭和29年)。 その後少しずつ延長され、東京 - 西銀座(現 銀座)間が開通したのは 1957年(昭和32年)12月だった。 山手線の下を く ぐる工事は 1956年(昭和31年) から 58年(昭和33年)にかけてで、レンガアーチの A部と RCラーメン構造のB部を別の工法で施工した。 |
丸ノ内線のおよそのルート |
1948年(昭和23年)3月の空中写真/国土地理院 に加筆 |
A 部分 : 高架橋 電車線4線分は 1910年(明治43年)9月に竣工 |
山手線の内側の道路と歩道 2013.3.21. |
この先 5スパン程度、 ▼ ▼が 横断のために工事された部分である。 歩道に換気口があることで、地下鉄が通っていることがわかる。 |
左に見える通路が、B部分の戦前と戦後の境目だった。 元の地面がこのレベルだったのか、それとも 元都庁構内に設けた換気口が地面よりも高かったのか。 新しくつけた道路は平らだが、恐らくは この換気口をいじることができないために、歩道だけが高いのだろう。 歩道は鍛冶橋ガードでは道路と同レベルだが、スロープで次第にのぼっていってこの付近が一番高い。 |
例によって 手前に建造物が付加されているため、アーチが造り直されている様子がわからない。 高架橋の上部だけしか確認できないが、元はアーチだったものが
コンクリートになっていた。 店内を覗くと、ほかとは違って天井が高い。 |
レンガではなく コンクリート |
RC造 PC桁の支間は 9.6 m~ 10.7 mで、新たな基礎で支えられており、丸ノ内線の構造物には荷重をかけていない。 |
オリジナルのレンガ造の姿 |
B 部分 : 高架線2線は 1942年(昭和17年)7月に竣工 |
B部分では 戦前に造られた高架の下を く ぐった。 既存のRC柱の下部に、柱を挟む形でRC受け梁を設けた。 地下鉄線の深さが無く、新設受け梁は地面より高いレベルにあるために、横断通路は床が盛り上がっている。 |
山手線の外側 |
もともと、高架橋の梁下寸法は車が通れるほどなので、1mほど床があがっても 人の通行には何ら問題がない。 |
C 部分 : 新幹線 2線 |
1964年(昭和39年)10月 : 後からできた新幹線は、地下鉄部分を跨いでいる |
新幹線のおよそのルート | ||
新幹線 丸ノ内線 |
写真サイズ 400 × 299 |
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1948年(昭和23年)3月の空中写真/国土地理院 に加筆 |
C部 新幹線の下から |
この先、柱スパンが飛んでいる部分の下に地下鉄が通っている。 新幹線の桁は「 I 型」のプレキャスト・コンクリート梁を8本並べたもの。 |
東京方向を 振り返って見ている。 |
位 置 (終戦後の様子) | ||
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院 | ||
写真サイズ 400 × 243 |
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渋谷駅 鍛冶橋通り 有楽町駅 |
■ 丸の内線 地下鉄構造物 データ | |||
位 置: | 千代田区丸の内一三丁目 | ||
管理番号: | - | ||
線路の数: | 2 線 | ||
竣工年: | 1958年(昭和33年)3月 | ||
くぐる線路: | 計 8 線 | ||
備 考: | 丸ノ内線建設時は 6 線 後に新幹線が上を通る | ||
東京駅(丸の内)でターンして新宿に向かえば 山手線を横断する必要がなかったが、東京随一の繁華街 「銀座」に駅を設けるのは当然の事。 横断している場所は、山手線との交差距離が最も短くなる、すなわち 交差角度ができるだけ90度に近くなる位置が選ばれたようだ。 |
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別の位置での横断案 |
黄色の点線などのルートが考えられるが、 ① は操車場内で 交差する線路の数が膨大となる。 ② は山手線のカーブの関係で、少しだけだが横断距離が長い。 |
タイトルの地図について : 地図サイズ 299×94 |
明治42年(1909年)測図、 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図 「日本橋」に加筆 大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行 |
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