山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋
有楽町 → 新橋

2. 第3有楽町橋 高架橋(前半)

第3有楽町橋高架橋 北端        2013.6.12
第3有楽橋
架道橋






で囲われた範囲が 第3有楽町橋。 重複を避けるために、有楽町の名前の由来と 高架橋の構造 については、別項を参照のこと。

新銭座-永楽町間 東京市街高架鉄道建設工事
旧汐留駅が起点だった旧東海道線から分岐して、新銭座〜永楽町間の新線工事が 1896年(明治29年)に開始された。 永楽町は現在東京駅がある場所の旧町名。 開通は1910年(明治43年)9月で、呉服橋仮駅まで。

工事は 新銭座から 東京駅に向かって行われたために、高架橋などの番号は新橋方面から付けられた。

:第4有楽町橋高架橋 第3有楽町橋高架橋 :第2有楽町橋高架橋
第3有楽町橋は 有楽町駅の主要部分を占めている。 中間には当初は無かった東西通路(有楽町中央口架道橋 | | )が設けられた。 これは次項で取り上げる。 また、中央改札口以南も 別項で取り上げる。

高架橋に、山手線の内側から 以下のような仮称を付ける。 





TX
 : 元 4線
 プラットホーム
 : 1線

 : 3線分
 : 新幹線
: 1909(明治42)年12月 烏森-有楽町間 開業
: 1951(昭和26)年11月 竣工
: プラットホームと同時に施行
    山手・京浜東北完全分離は 昭和31年
: 1942(昭和17)年7月までに増線
: 1964(昭和39)年 開通




A 部分 : 電車線 旧東海道本線 計4線分 
   1909年(明治42年)烏森-有楽町間 開業

建設時には4線造られたが、ホームは1面しかなかった。 

補強されながら現在も使われているが、『「東工」90年のあゆみ』 397ページに、写真入りで ”有楽町駅ホーム新設、在来煉瓦アーチ取りこわし中(昭和26)” とあるので、第4線の一部は取り壊されたことがわかる。 その位置は、部で。

第3有楽町橋高架橋 北端 (再掲)     2013.6.12
第3有楽橋
架道橋





山手線の内側から。 一番北側のスパンは 自由通路、二番目が「国際フォーラム口」として使われている。

改札の内側から             2013.7.29. 自由通路から 南を見る
左写真:出口に面したところが 「第一線」、手前が「第二〜四線」のアーチ高架部分で、この隙間の上部が第一ホーム(1・2番線)である。 
右:わずかな隙間に2つの検札が設置できるのは、自動機ならでは。

が前掲写真のおよその位置
新橋方向を見ている。

北端の自由通路部分           2010.11.1.
国際フォーラム方向(山手線の内側)を見ている。 アーチが重複しているが、少しずつずれている。 これは すぐ右側にある道が斜めになっているため。


 アーチの内部

高架下の新テナント                    2012.5.4
2012年に新しく入居した ビックカメラ・アウトレット。 向かいの旧そごうデパート跡の店が増殖したもの。 もちろん構造は補強済み。 円形のメダリオンが塗り分けられている。

店内の様子
店内の床は 2mほど低くなっており、天井(ホームの床)がより高く感じられる。 ただし 広く続いているのはホームの下部だけで、左側は橋脚で区切られている。

この場所の断面 再現図
『東京市街高架鉄道建築概要』の標準断面図を元にして、開通当初の駅の断面を表現してみたが、正確ではない。 2線 と 3線の間はもっと間隔が空いていたと思われるし、つなぎ梁(地中のねずみ色の部分)の位置が違うだろう。 また「地盤面」のレベルは、もう少し低いかも知れない。

この図からわかることは、地上レベルでは 橋脚 ・基礎以外の部分は床などがなく、土を埋め戻した状態が基本だった という事。

店内の床が低いのも、これなら納得できる。 基礎の上端までの深さは 約4m なので、この店の床よりもさらに低い位置だ。

煉瓦の橋台部分
橋脚部分の通路は極めて狭い。 そこでは 土に埋まっていたと思われるレンガが、姿を見せている。


耐震補強工事中           2013.8.1
アウトレットの隣は テナントが退去して、耐震補強の工事中。 そこに、メダリオンが2つはめ込まれた「幅広橋脚」がある。↑

中央口へ             2013.3.21
ビックカメラの先は あと3スパンのアーチが続き、駅中央口の開口(緑の庇部分)となる。  中央の自由通路は別項で取り上げる。



T 部 3 線分 : 1942(昭和17)年7月 竣工、現 東海道本線

建設年順に掲載するので、プラットホーム部は後回しになる。

一般の部分では2線の増線だが、ここではホームの新設に伴って、A部の第4線を移設するための線を加えて 3線分が建設された。 その3線のうち、東側(山手線の外側)2線が部分、内側の1線が 部分である。

当面使われたのは、現在も東海道本線として使われている T部 2線で、引き続きホームも造る予定だったのかもしれないが、戦争が激しくなって 高架橋本体と 2線分の線路敷設の工事で終わった。 

終戦後 1948年3月の様子
米軍撮影/国土地理院  写真サイズ:400 × 252
部分拡大写真




T部
B部
A部4線
ホームの場所
黄色の網掛け 3線分が 戦前に増設された高架部分。 線路部だけではなく、通路部分もコンクリートの床板が造られている。
まだ A部の第4線 ・・・・は残っているが、使われていない。 

T 部分 第3有楽橋架道橋の橋台       2012.3.8
高架橋の北端部の「橋台」。 柱・梁形式の鉄筋コンクリート造。 3線分の場合は柱を4本とすることも多いが、ここでは 柱3本と、左側の片持ち梁を加えて3線分を支えている。

高架下には店舗が入居しているが、ガード下から入るこの店舗は別として、左隣には新幹線の高架橋があるために通路が狭く、立地条件は悪い。

A部 と B部( 躯体の建設時は T部 ) の間 の京橋口

  A部 アーチ            上部はホーム         B部 RC造
東京方向を見ている。 A部の一部を削って 改札口を設けた。

中央口付近
新幹線の橋脚の奥が RC造の T 部。 中央口改札に近い所はJRの事務室などに使われているようだ。

中央口
奥↑A部      改札口              RC造の T部

 

P 部分 : 第二乗降場 1951年(昭和26年)11月 竣工
: 現 京浜東北線 南行き
B 部分

戦後の割と早い時期、1951年(昭和26年)に完成したプラットホーム部分である。 
戦前に実現できなかった 田町〜田端間の複々線化工事は、 1949 年(昭和24年)12月から始まり、7年間の歳月をかけて 1956年(昭和31年)11月に完全分離運転が開始された。

戦後まで残っていた 第4線部
アーチ高架橋の第4線部分 ・・・・・。 現在もその一部分は 上部にホームが造られて、使われている。 しかし、ホームから地上に降りる階段部分があるために、削らざるをえなかった。

『「東工」90年のあゆみ』 397ページに工事中の写真が掲載されている。 

無断で使うわけにはいかないので、言葉で表現するしかないが、 ”有楽町駅ホーム新設、在来煉瓦アーチ取りこわし中(昭和26)” の写真は、第2有楽橋架道橋から東京方向を撮ったもので、すでに部の時に建設されていた通路上部のRC造の床も壊して、鉄筋が出ている様子が写っている。

取り壊した場所は、第3有楽町橋高架橋 全体にわたっており、第4線の東側を削り取る形だった。

レンガアーチと既存RC部の取り壊し(想像図)
米軍撮影/国土地理院
では どのぐらいを削ったのか? 
現在残っている A部 東側3線 の寸法は、約 11m。 もともとの幅は 13 m はあったはずなので、2m ほど削られたようだ。 ( 推定、未確認事項 )

鉄骨溶接による上家
1951年(昭和26年)の竣工にしてはスマートな造りの上家である。 最初は近年に造り直されたものかと思っていたが、当時のものだった。 
『「東工」90年のあゆみ 別冊』に岡本俊雅氏が寄せた「有楽町附近工事の憶い出」によると、
当初は古レールによる不細工な本所の設計であったが、銀座、日比谷を控えた都心の枢要の地であるので、この駅にふさわしく見栄えのするホームにしたいと考え、瀟洒な鉄骨造りに設計を変更し、本所の了解を得て、極力増額費を切り詰める事を条件に本社から予算を獲得してこれを実施した。 (筆者注 : 「本所」とは 東京工事局 のこと)

よく見てみると、母屋は木造だった! 経費切り詰め策のひとつである。

さらにエピソードが続き、全ての柱の根元に 「ベース」 が付いている原因がわかった。
新設上家の庇鉄骨が 3センチほど「建築限界」に抵触するという問題が生じた。 本社電気局長から出ていた 建築限界の変更通知が現場に届いていなかったためである。 工事費節約のために変更前の建築限界ぎりぎりで設計したのが祟ったのだった。
これに対して現場が責任をとり、1日の猶予をお願いして、即日請負業者に指示して鳶職を集め、その晩徹夜で上家柱を嵩上げした。 溶接箇所が見苦しいので、コンクリートの「袴越し」 (30cm 角 × 高さ 12cm )を付けたのである。 (要約)
具体的には、18組+1本柱 2箇所の全てに作業員を張り付けて、仮受け ・切断 ・ジャッキアップ ・6センチの扛上溶接 を行った、とのこと。

他の駅でもよく見かけるが、山手線電車の車両幅を広げた時などに、同じようなことが行われたのだろう。
第二ホームの東京駅側
東京方向



木製の母屋
1951年(昭和26年)に竣工したのは、ホームが よりも右側。 第3有楽橋架道橋の直前まで造られた。 小さなに RC造の片持ち梁が見える。

一方 上屋は までで、ホーム端部には少しだけ 屋根のない部分があった。 延長部分の母屋が鉄製なので、境目は歴然としている。
前掲写真とは逆に 新橋方向を見ている。 手前が新しい部分で、母屋がアングル製。

旧 第4線の上に立つ
山手線の外側
( 東 側 )
山手線の内側
( 西 側 )
東京側から新橋方向を見ている。 気になるのは ホームの中央に立つ「架線柱」 。 1951年(昭和26年)のホーム新設時点では、前掲写真で示したように手前は延長されておらず、ホームの北端にあった柱だ。 現東海道線の増線工事で建設され、第4線のすぐ脇に立っていた「名残」だと思われる。

写真にカーソルを乗せると、昔の線路が見える・・・・・。



TX 部分 : 東海道新幹線 2線 : 1964年(昭和39年)10月
     東京オリンピック開催に合わせて開通


                         上り列車が来ます!

山手線の外側           2013.4.10.
第3有楽橋 架道橋 ↑
巨大な鋼鉄製ボックス桁の新幹線は、連続した「橋梁」となっているが、名称は「第3有楽町橋 高架橋」。

デザインされた橋脚                   2013.3.18
これも、銀座の玄関口として見栄えのするデザインとしたものだろう。
ほかの場所に較べると、柱をつなぐ梁が目立たないように考慮されている。
参考 : 東新橋の新幹線橋梁



位 置
1948年(昭和23年)3月の空中写真/国土地理院
有楽町駅                               新橋駅
写真サイズ 400 ×135 ドット

第3有楽町橋 高架橋 データ


位 置: 千代田区有楽町二丁目
管理番号:
道路名:
線路の数: 8 線 (下記 A〜TX は仮の呼び名)
A: 3線: 京浜東北線、山手線
B: 1線: 京浜東北線 南行き
T: 2線: 東海道本線
TX: 2線: 東海道新幹線
橋 長: 約 110 m
アーチの数: A部 山手線の内側で 15、外側で 20
竣工年: A: 1909年(明治42年)12月
         烏森-有楽町間 開業
B: 1951年(昭和26年)11月 竣工
T: 1942年(昭和17年)7月までに増線
TX: 1964年(昭和39年)開通
備 考: 有楽町駅構内、 有楽町の由来 ・A部の構造 は別項を参照
名前の由来: 江戸時代初期に 小田有楽斎の屋敷が付近にあったとされる事に由来する。

タイトルの地図について : 地図サイズ 299×94
明治42年(1909年)測図、 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図
「日本橋」に加筆            大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行

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