山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋
有楽町 → 新橋

3. 有楽町中央口 架道橋

:第4有楽町橋高架橋        :第3有楽町橋高架橋        :第2有楽町橋高架橋
                ll有楽町中央口 架道橋 

高架橋を貫通する形で ll を点滅させているが、架道橋は東海道本線など東側だけで、西側は開通当初のレンガアーチ高架橋を く ぐっている。

有楽町中央口架道橋 遠 景        2010.12.19
山手線の外側 交通会館から。

建設の経緯は「第3有楽橋 架道橋」と同じと考えられる。 山手線の内側から順に 以下のような仮称を付ける。







TX
 : 現京浜・山手線 3線
  
 : プラットホーム
 : 現 京浜東北線 南行き
   工事は T部と同時

 : 東海道本線 2線
 : 新幹線 2線
 : 1910年(明治43年)9月15日開通
  建設当初は 4線で、レンガ造のアーチ高架橋
 : 1951年(昭和26年)11月竣工
 : 戦前 1942年(昭和17年)7月までに桁が架けられた
     戦後 1951年(昭和26年)頃増線
       山手・京浜東北完全分離は 昭和31年
 : 戦前 1942年(昭和17年)7月までに増線
 : 1963年(昭和38年)頃工事
    1964年(昭和39年)開通
         B+部の3線分が 戦前に建設された事に注意。



A 部分 : 旧電車線、旧東海道本線 計4線分 
        1910年(明治43年)9月に竣工

山手線の内側から     2013.4.10
有楽町橋高架橋の一部である。 
新銭座−永楽町間の新線建設時に レンガ造の高架橋が造られ、現在使われているのは、内側(写真では手前)の3線。 
第3有楽町橋高架橋は 両端の道路が斜めに横切っているために、東西でアーチの数が違う。 内側の南から3番目 ・4番目は、以前は車道として使われていたものが、歩行者専用の東西通路とされて駅周辺の通行が楽になった。 

近 景 (山手線の内側から)       2010.11.1
前掲写真よりも撮影日が古く、手前の交差点がスクランブル形式になる前の状態。
高架橋 アーチの内部に注目すると、橋脚が分かれているのが見える。 その上部が当初から ホームとなっている。

ホーム下の様子            2010.11.1
↑第2線              ホーム下部         第1線↑
新橋方向を見ている。 
建設時からこの場所にホームがあったが、見えている階段は1953年(昭和28年)に設けられたもので、建設当初の改札口は、もう1スパン南側(新橋側)にあった。

ここの構造の再現を試みた。 第3有楽町橋高架橋の項では 『東京市街高架鉄道建築概要』の標準断面図を元にしたが、今回は基本設計を行った バルツァーがドイツ技術者協会の雑誌に掲載した、『Die Hochbahn von Tokio 』(1903)を加工した。

有楽町駅ホームの 断面予想図

      第4線        3          2            ホーム         第1線
ホームは、レンガで立ち上げた土台に鉄骨を渡している。 図の左右が反対になっているのは、本ホームページの進行方向である、新橋方向を見るかたちとするためである。

A部 第1線 部分           2013.8.29

A部 第2〜第4線 部分          2013.8.1
白く塗られているが、中身は無垢のレンガ造。 中間に見えるアーチの位置も大体合っている。 当初は穴が開いていたが、今は板で塞がれている。

写っている この長さが、10 .8 m。

A部 山手線の外側           2013.3.29
きれいなレンガ。 車道の時はゆっくり見ることができなかった。 
調べ始めた当初は、ここが 切断されたもの! とは思っても見なかった。 竣工時のようなレンガや 頂部に付けられた凹凸の飾りに騙された、といえる。

切断された事実の 根拠
1. 『「東工」90年のあゆみ』 397ページに、第二ホーム建設時の写真が掲載されている。 第2有楽橋架道橋から東京方向を撮ったもので、説明に ”有楽町駅ホーム新設、在来煉瓦アーチ取りこわし中(昭和26)” とある。
2. 前掲写真、第3線〜4線の幅を実測すると、約 10.8 m。 図面から計算すると、オリジナルは 約 14m。 3mほど短くなっている。
3. アーチ内側にあるはずの、化粧の黒レンガが無い。

オリジナル面 カットされた面

となると、以下の位置で切断されたことになる。 1951年(昭和26年)のことだから ダイアモンド・ソーなどはなくて、手仕事だろう。
およその切断位置
問題は、砂利を受けていた上部の立ち上がり が無くなる事。 つまり、今見えているアーチの上部は、工事の時に積み直したレンガ あるいはコンクリート打設 ということになる。 

そこで改めてジックリ観察した結果、奥行き 50ミリ と 100ミリのレンガブロックが「張られている」(積まれている)ことが判った。 
 1.で見た工事写真 (著作権のために掲載はしていない)のとおり、多めに壊して修復したものと考えられる。 部分的にはさらに後に修復された レンガタイル張りの所もある。

側面だけに積まれたレンガブロック
カーソルを乗せると、浮き出ているレンガの形を示す。



T 部 3 線分 : 1942年(昭和17年)7月 竣工、現 東海道本線

建設年順に掲載するので、プラットホーム部は後回しになる。

戦前に2線を増線したのは、東海道線・横須賀線の線路容量が飽和に達した上に、品川に旅客操車場が新設され、それに伴う回送列車が増加したためである。 一般の部分では2線の増線だが、ここではホームの新設に伴って、A 部の第4線を移設するための線を加えて 3線分が建設された。 内側の1線分が戦後に 部分となる。

終戦後の状況 1948年(昭和23年)3月の空中写真
国土地理院 / 写真サイズ 400 × 280 ドット
朝撮った写真で、日が東から差している。 建物が立体的に見えるような 分かりやすい角度で、部分拡大写真を見てみよう。 
拡大しすぎると画像が荒れて、架道橋B部の様子がかえって分からなくなる。
終戦後の状況 1948年(昭和23年)3月の空中写真
写真サイズ: 400 × 300 / 国土地理院
ほぼ 上が北の状態である。 部の第3 ・4線は使われていない。
3線分建設された 部のうち、はコンクリートの躯体の状態。
架道橋部分では東海道線の2線の桁以外に、コンクリートとは明らかに違う 「桁」 がある。

これは、第3有楽橋架道橋と 同じ状態であり、道床(レール)のレベルが低いために、構造の異なる架道橋を架けた苦肉の策である。

戦前の増線             2013.8.1
           T 部 2線               3線目(B部)
新橋方向を見ている。 B部は最下部に、雨水を受けるパンが付いている。

東京方向を見る
見えているのは 中央口。 T 部は閉床式で バラストを受けるバックルプレートが上部に付いているので、たくさんある竪樋からの雨水は、最下部の細長い雨樋で横引きしている。

山手線の外側から           2010.8.12
新幹線の下から。 斜め上向きの庇が付いているのは、T 部と新幹線の桁との間に開口部があるからで、そこからの雨をよけるため。 
車が通っていた時の名残、桁下制限用のバーがある。(制限高 2.5 Mと書いてあるもの) 当時は 黄色と黒の 虎模様だった。

ホームから見た T 部         2011.7.27
          T 部 2線                         B部
T 部には砂利が敷かれているが、B部にはない。 線路のレベルが T部よりも低いため。

 

B 部 : 現 京浜東北線 南行き
架橋は部と同時期 : 1942年(昭和17年)7月
開通は 第二ホームが造られた1951年(昭和26年)11月

ホームから見た B部          2013.8.29
  ↑ T 部 2線               B部 京浜東北線南行き

下路プレートガーダ
斜めのプレートがある場所に 両側を繋ぐ横桁がある。


山手線近距離電車分離
1949年(昭和24年)12月に始まった 山手線・京浜東北線の複々線化は、それまで長い間2線を共有していた両者を完全に分離するための工事である。 戦前の工事も含めて、市街地である田町- 田端間に2線を増線するのは大変だっただろう。 昭和31年の竣工までに約7年間かかっている。

まず先行して、1949年(昭和24年)11月から「東京駅引上線新設工事」として、呉服橋架道橋−千代田町架道橋間 700mに高架橋を新設する工事がスタートする。 工期は2年間。 

その他の工事は2期に分けられたが、2期といってもほぼ同時並行して進められた。
一期工事の主な項目は、新橋 ・有楽町各駅にホームを1面増設、東京駅有楽町側および神田側に高架橋を新設、東京駅手小荷物扱い所新設、東京駅ケーブル地下道新設、東京駅第6・7ホーム新設、上野駅第5高架ホーム新設、など。
鍛冶橋架道橋 B部分も含めて 1954年(昭和29年)4月に完了して、国鉄悲願の縦貫線が完成し、常磐線が有楽町まで乗り入れたそうだ。

  B部は この一期工事に該当すると思われる。

二期工事は 複々線運転開始に伴う工事で、田町・浜松町間 旧計画の立体交差除去工事、浜松町ホームPC上屋新設、東京駅構内高架橋新設、鍛冶橋架道橋(S部)増設、東京-上野間高架橋および架道橋の増設、神田・御徒町・日暮里各駅にホーム1面増設、上野駅高架10番線増設、上野−田端間路盤構築、など。

1956年(昭和31年)11月には すべての工事が完成して、分離運転が開始された。



P 部分 : 有楽町駅 第二ホーム
                  竣工 1951年(昭和26年)11月竣工

B部の下から東京方向を見る


A部

B部
ホーム部分も架道橋と同じような 背の高い桁を架ける必要がある。 左側はレンガアーチが支えている。 構造はよく見えないが、右側の桁と同じようなものだろう。



TX 部分 : 東海道新幹線 2線 : 1964年(昭和39年)10月
     東京オリンピック開催に合わせて開通

山手線の外側から           2013.8.4

新幹線の下から           2013.3.29
新橋方向を見ている。


                位 置 (終戦後 まだ4線の状態)
1948年(昭和23年)3月の空中写真/国土地理院
  有楽町駅                              新橋駅
写真サイズ 400 × 135 ドット

有楽町中央口 架道橋 データ


位 置: 千代田区有楽町二三丁目 
           東京駅より 803M 85
管理番号: 3 (東海道線)
道路名:  −
線路の数: 8線 (下記 A〜TX は仮の呼び名)
山手線の
  内側から
A: 3線: 京浜東北線山手線 (高架橋)
P: プラットホーム
B: 1線: 京浜東北線 南行き
T: 2線: 東海道線
TX: 2線:東海道新幹線
総径間: B: 15. 8 m (塗装履歴による)
空 頭: 高さ制限 : 2. 5 m
竣工年: A: 1910年(明治43年)9月 複線開通
   1914年(大正3年)12月 複々線開通
P: 1951年(昭和26年)11月
B: 1942年(昭和17年)7月までに増線
   開通は 1951年(昭和26年)11月
T: 1942年(昭和17年)7月までに増線
TX: 1964年(昭和39年)10月1日 開通
名前の由来:  付近の橋に由来する。
 ただし 大正期以降の架橋である。
この架道橋に限らず、付近一帯の高架橋も含めて、「有楽町」の地名にちなんでいる。
詳しくは、「有楽町の由来」の項を参照の事。


本題とはまったく関係がないが、40年前の写真が出てきたので、村野藤吾設計の旧「そごう / 読売会館」の写真を。 そごう閉店後は言わずと知れた「ビックカメラ/有楽町店」。 外観はすっかり改装されている。

そごう外観        1974.2 当時の外装 ガラスブロックを内側から

読売会館 内部

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