山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

新大久保 → 高田馬場
1. 第三大久保 架道橋
新大久保駅前の大久保通りに架かる橋。
付近は昔から韓国料理の店が多かった。 近年の「韓流ブーム」で乗降客が大幅に増えたが、それでも乗降客数は山手線の中では下位である。

全景 山手線内側より
新大久保駅のホーム下にある。
手前の緑の濃い部分は、西武新宿線の架道橋である。

山手線 内側 (2009年11月)

大久保通り商店街

見えているのは西武新宿線のガード。
高田馬場から新宿まで延長された時、1950年
(昭和25年)に架けられた桁が還暦を迎える。
山手線 外側

ホームが延長されて、道路の上となった。

電車でホームの屋根がかくれている。

ホームから見た 第三大久保 架道橋 山手線内側
手前のガードが真っ黒なのは、ホームに侵入した内回り電車がブレーキをかけ始める位置にあるためで、錆の汚れである。通過する埼京線の桁は汚れていない。

また、ホームの反対側の山手線外回りの桁も、減速が済んでいるために汚れは少ない。
ホームから見た 第三大久保 架道橋 山手線外側

埼京線部分 下路 開床式プレートガーダ 山手線部分 と プラットホーム

単線2主桁。 ホームを挟んで 合計 4本。
雨受けパンを設け、両サイドで排水している。

ホーム部分はコンクリート製。PC梁であろう。
橋台には楽しげなイラストが描かれている。

調べてみると、大久保地域と新大久保地域が共同で「壁画作成実行委員会」を立ち上げ、公募した結果で、完成は2005年4月のようだ。

テーマは上の壁画が「新大久保:天使のまち」。なぜ新大久保に天使なのかがわからないが、原画の作成は、横島基尚氏 (ガード下壁画作者)。

反対側には、「大久保:鉄砲隊とつつじのまち」のテーマで、百人町にちなむ鉄砲隊と 評判であったつつじの花の絵が描かれていたが、現在は別のものとなっている。

恐らく誰かが、「鉄砲隊」→「戦争」というイメージを指摘した結果であろう。


埼京線の銘板 銘板が外れた跡 (もう一方の埼京線)

埼京線の桁に付けられている銘板の一行目には年月が記されている。「大正ひと桁台」であることは間違いないが、年号が明確ではない。
「大正六年」のように見える。

もうひとつは銘板がはずれてしまっている。
山手線の桁には銘板がなくて製作年が確認できないが、4本ともほぼ同じ時のものと思われる。
リベットが使われている。


第三大久保 架道橋 データ
位 置: 新宿区百人町二丁目
 品川より 11K 966M 18
管理番号: 山手線 ( 23 )
通りの名称: 大久保通り
線路の数: 4本
山手線、埼京線・湘南新宿ライン (共用)
支 間: 16 m
空 頭: ( 制限高さ 3.7 m )
竣工年: 桁に付けられた銘板が読み取りにくいが、「大正6年」(1917年)のようだ。
1885年の開通当初は踏切であった。
山手線の複々線化に伴って立体交差化された。
下記 「架道橋の竣工年について」を参照
参考: 西武新宿線架道橋の桁: 1950年(昭和25年)
備 考: 塗装履歴: 1995年2月
名前の由来 と 地名の由来は、第一大久保架道橋 参照

第三大久保架道橋 の竣工時期について
この項 2010.5.17 に訂正
埼京線の桁の製作年が「大正年間の一桁」(大正元年〜十年、1912〜21年)であることから、複々線化の完了時期(1924年、大正13年)よりも前に架けられたものである。

複線で営業を行いながら、山手線の外側に敷地を買い足して複々線化が行われた。 新大久保の現在の駅も、この時に別の場所に作られたものである。
当然工事は開業よりも早い時期に開始され、恐らく数年を要したであろう。

架道橋の竣工時期は確定できないが、それまで踏切であったものを、複々線化に伴って立体交差化したことは間違いない。

まず電車線を高架とし、開通後に新 山手貨物線も高架としたはずだ。
工事期間中は、貨物列車も電車線を走っていたのだろう。

次に、
1963年(昭和38年)の航空写真から、プラットホームが道路の上まで延長されたのは、その少し前だと思われる。
橋脚の外壁に、「1962-7」と書かれたプレートがあり、これが建設年月を示しているはずなので合致する。

先に架けられたはずの山手線部分の桁も、埼京線と完全に同じスタイルなので、桁は昔のまま利用して、橋台の改修とプラットホームだけが新設された可能性が高い。

1947年頃の航空写真で、2本の山手線のあいだには大きな空間があるので、それも可能であろう。

なお、緑色の西武新宿線の桁はなんとか銘板が確認でき、製作年は 1950年(昭和25年)6月であった。
西武新宿駅まで延長されて開業したのが1952年(昭27年) 3月からであり、その時の架橋である。
 

周辺の情景
道路の拡張
1923年(大正12年)の関東大震災から 90年近くが経つ。現在の東京の幹線道路はほぼ、この時に決められた都市計画道路に沿っている。
山手線に平行する「明治通り」が拡張される中で、高田馬場と新宿を結ぶこの新しい道路が必要なのかどうか疑問だが、完成すればそれなりの交通量はあるだろう。
戦後になって、始まったロッテの食品工場。今や山手線の中に残る工場としては、有数の規模である。韓国系の店が多くなったルーツなのかも知れない。
近くを歩くと、ガムの香りがぷんぷんと漂う。
 
中央線  第三大久保架道橋 上部の ホームから
新大久保駅から大久保駅までは 300mちょっと しかない。
遠くに中央線快速が走っている。

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