山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

新大久保 → 高田馬場
2. 第四大久保 架道橋
大久保通りの一本北側に昔からあった通りで、新しい名前を付けるとしたら、大久保通りから移った 「社会保険病院通り」。
西側は小滝橋通りに繋がっているが、東側は折れ曲がった路地となる。

開通当初は、築堤された土手を少し登って踏切となっていた。
現在は逆に道路を掘り下げて、山手線をくぐるっている。

全景 山手線内側より
通過中は 山手線外回り。
手前2本は西武新宿線の架道橋で、JRと同じ名称になっていた。

山手線 内側 (2009年12月)

見えているのは新しく整備された道路の陸橋。
名称は 「大久保微風(そよかぜ)橋」

新しい陸橋の下から。
見えているのは西武新宿線のガード。高田馬場から新宿まで延長された時、1950年(昭和25年)の桁が還暦を迎える。
山手線 外側

撮影位置の道路レベルは、すでに当初の地面から掘り下げられて低くなっている。

本来の付近のレベルは線路とほぼ同じである。

左の写真の位置から、さらに下がってガードをくぐる。 制限高さは 3.3m。

山手線部分 下路 開床式プレートガーダ
桁下が小さいので1車線分が広く見えるが、単線 2主桁が計4本。
リベットが使われている。雨水パンを付けて、両サイドで排水。
ガード内に独立した照明灯があるが、これ1本だけで、ほかに壁付きなどはない。

銘板のひとつ

埼京線の北行き部分。(内側から2本目)
何回も塗り重ねられている上に 現状はひび割れている。

この銘板は明らかに「大正十年」1921年である。
(読みは右から)
この時期、つまり山手線が複線化された時に、 4本が順次 (あるいは2本ずつ)高架にされたものと思われる。
製造後 88年の「米寿」である。第二大久保架道橋のように、近いうちに掛け替えられるのでは?

参考 西武新宿線の架道橋
左側の2本。同じくリベット止めであるが、JRのものより 30年もあとの、1950年
(昭和25年)6月製造である。 メンテナンスも良いようだ。


位 置 (戦後の様子)
1948年(昭和23年)6月の空中写真/国土地理院

新大久保
                                              高田馬場駅
第四大久保 架道橋 データ
位 置: 新宿区百人町二丁目
 品川より 12K 267M 10
管理番号: 山手線 ( 24 )
通りの名称:  −
線路の数: 4本
山手線、埼京線・湘南新宿ライン (共用)
支 間: 7 m 90
空 頭: ( 制限高さ 3.3 m )
竣工年: 桁に付けられた銘板がひとつは外れており、ほかの3つも読み取りにくい。
いずれも大正年間であり、そのひとつは大正10年 のようだ。
1885年の開通当初は踏切であった。
山手線の複々線化に伴って立体交差化が図られたようだ。
参考: 西武新宿線架道橋の桁: 1950年(昭和25年)
備 考: 塗装履歴: 1997年11月
名前の由来 と 地名の由来は、第一大久保架道橋 参照

1887年(明治20年)の地図
品川線 単線の状態。 畑や草地ばかりで、道も少ない。
終戦後まもない 1948年(昭和23年) の様子
国土地理院、撮影は米軍
左上は 旧陸軍省の敷地。 右側の学校は 海城学園


周辺の情景
道路の拡張
山手線の内側で、高田馬場と新宿を結ぶ新しい道路。
比較的早くに貫通した部分だが、まだ幹線道路との接続がないため、現在の交通量は少ない。

なお、西戸山タワーホームズの住所は「百人町」であるが、イメージの向上ために「西 戸山」のネーミングとしている。
戸山の地名は明治通りの東側であったが、すぐ近くにあった旧陸軍の演習場も「戸山が原」と呼んでいたので、あながち間違いではない。
線路は周囲と同じレベル
西戸山タワーホームズの前である。 扉は線路への資材搬入口。

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