山手線が渡る橋・くぐる橋  - 架道橋 (ガード) ・跨線橋 -

高田馬場 → 目白
2. 神田川上水 橋梁
山手線では数少ない、特に城北では唯一の橋梁。
当初から鉄橋だったようだ。

全景 山手線外側 より
山手線外回り電車が通過しようとしている。
鉄橋に近づくことはできないが、音はかなりうるさい。

山手線の内側
神田川に架かる「神高橋」の上から見ると、2008年10月に竣工した西武新宿線の橋に遮られて、電車が通る姿が見えない。
地面すれすれのローアングルで撮ったにもかかわらず、この状態である。
 
カーブする西武新宿線 と 直線のJR線
両者の関係が良くわかる。 中央奥に 山手線高田馬場駅が見える。
高田馬場駅ではほぼ並んでいた西武新宿線が一度離れる理由は、このあと山手線をくぐる時に、交差区間(跨線橋部分)を短くするために、角度を付けているからである。

山手線の外側

清水川橋から。付近には専門学校がたくさんあり、平日はひっきりなしに学生が横切る。

内側部分に「水平バットレス」がある。


位 置 (終戦後の様子)
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院
  高田馬場駅     神田川                               目白駅
神田川上水 橋梁 データ


位 置: 新宿区下落合二丁目
 品川より 13K 484M 69
管理番号:  -
川の名称: 神田川
線路の数: 4本
山手線、埼京線・湘南新宿ライン (共用)
支 間: 12.9 m(山手線の外側・山手線部分)
空 頭:  -
竣工年: 現在の桁 : 不明
備 考: 品川線開通当初から、鉄製橋梁であった。

塗装履歴: 1994年1月
名前の由来: 渡っている川の名称による。
ただし、「神田川橋梁」あるいは、「神田上水橋梁」とすべきで、「川と上水」の両方は不要である。
 

神田川橋梁 の レンガ製橋台 について
2012年4月 日 修正


「橋台」部分だけでなく、盛土端部の三角部分「翼壁」までが煉瓦積みである。
原宿 - 代々木間の「裏参道架道橋」などにも見られるが、そこは大正13年に行われた複々線化部分であり、このように 1904年(明治37年)完成の複線部分に残っている例は少ない。

図説『駅の歴史』/交通博物館編にある「日本鉄道会社 線路平面図及縦断面図」 1894年(明治27年)には、この橋の名称として「神田上水」が使われているが、「I. P. G. BRIDGE」と記載されているので、「アイアン・プレート・ガーダ橋」、当初から鉄橋であった。 橋の長さは「40フィート」(約 12.2 m)となっており、現在の桁のスパンとほぼ一致する。

鉄橋を架けるためには強固な「橋台」が必要である。
当時はまだ 鉄筋コンクリート構造物は普及していなかったので、煉瓦造となる。
しかし、現在の煉瓦造部分がいつのものかは判断できない。

 ① 1885年(明治18年)開通当初のオリジナル構築物である。
 ② 1902年(明治35年)目白-高田馬間勾配変更の時 あるいは 1904年
   (明治37年)に 作り直した。
の、二つの可能性がある。

1924年(大正13年)の複々線化時は、コンクリートによる増設である。
 

現状の橋桁の製造年についても、近寄れないだけにまったく情報が無い。
また 橋台とは別に 後年に桁だけ架け替えられた可能性もある。

日本鉄道による 品川 - 赤羽間の「品川線」(単線)の工事期間は、たった1年3ヶ月という短期間であった。
道路との交差はできるだけ踏切に、当時はたくさんあった小さな川は、「アーチ・カルバート」と呼ぶトンネル状の小さな暗渠で通している。
地形の関係から「築堤」せざるを得なかったこの区間で、たびたび氾濫を起こしている神田川に橋を架けなければならないというのは、品川線の中でも最大の難所で、工事にも力を入れたに違いない。
 

複線化時の勾配変更
もう一つの手がかりは、『日本鉄道 明治35年年報』の新線工事に係わる報告である。
日本鉄道はこの年1902年(明治35年)の1月から田端線 (田端-池袋間)の工事を行うと共に、池袋-目白間に副線を敷設している。(複線化)
また、1/100 であった目白駅構内を 1/300 に改修すると共に、高田馬場駅方向の盛土部分も勾配変更工事を行って、8割がたが終了している。
                            (川越街道架道橋 の項 参照)

開通当初の付近の勾配は、新大久保方面から池袋に向けて、以下のようになっていた。 

第三新大久保架道橋                  神田川         目白駅     現目白三丁目付近
(当時は踏切)      約 1.4 km                       約 1.4 km         水平
                1/110           約 0.2 km         1/100          
                              水平区間

目白駅のある区間付近を 1/300 に緩くすると、その分 少しだけ神田川方面の路盤が高くなる。
工事の内容として「人道橋一箇所、橋梁二箇所」とも記載されているので、「神田川橋梁」も含まれていると考えられる。

この時期は、品川-目白間の複線化の認可が下りており、測量もほぼ終了しているので、翌々年に完了した 新宿-池袋間の複線工事の一環である。

そこで、私の結論は
神田上水橋梁の 現埼京線側の橋台は、1903年ないし1904年(明治36年か37年)の竣工である。
となった。 一世紀を超えていることになり、鉄製の桁は一度は架け替えられているであろう。
 


とはいえ、煉瓦積みのこんな立派な橋台を作っている「時間的な」余裕があったのかどうか。
 

複々線化時は コンクリート
この区間の複線化が完成してから 20年後の 1924年(大正13年)に複々線化がなされている。
ここでは山手線の外側に線路を増やした。
この時に、埼京線部分の桁も架け替えられたのではないだろうか・・・。
橋台 北面 (目白側)
山手線の外側から西武線方向を見たものであるが、橋台の手前半分はコンクリートである。 当然、奥(現在の埼京線部分)が古い橋台である。

この写真で見える北側の古い煉瓦部分はそっくり残っているが、南側は、煉瓦にかぶせるようにコンクリートが打ち増しされて、補強されている。(次の写真)
さらに煉瓦橋台の崩壊を防ぐために、低い部分にコンクリート製の水平バットレス(つっかえ棒)が取り付けられている。
橋台 南面 (高田馬場側)
 
蛇行する神田川
橋梁の下が「S字峡」となっている。

神田川の川幅は治水事業でかなり広げられ深さも増したが、ここだけは、橋の全面的な架け替えをしないと広げられない。

この貴重な煉瓦の橋台に落書きをする 輩がいる。
彼らの最高の歓びは、普段行けそうもない場所に落書きすることで、ここなどはちょっと柵を乗り越えれば、割と簡単に はいれる場所である。

真夜中のパトロールをするお巡りさんに捕まえてもらうしかない・・・・。


参考 アーチ・カルバート
西武新宿線 早稲田通りのすぐ北側に残っている、カルバートの遺構。
神田川に流れ込む小さな支流のひとつを、西から東にくぐらせたものである。
幅は 2m程度。

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