山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 日暮里 → 鶯谷

番外 2. ホームの上屋
2010年4月14日 掲載
2011年9月27日 古レールによるホーム上屋訂正
2012年2月17日 ホーム上屋に関して追加・訂正記載
2014年2月18日 10番線が増築端仕様だった事が確定し、訂正・加筆
2019年8月00日 本項を独立させる。



昭和の遺産
古レールによる ホームの屋根

日暮里駅ホームには古レールによる背の高い屋根が残っている。
その特徴は、線路敷きに柱を立てることによって、ホームに柱が無いことである。

無柱空間 ( 11 ・12 番線、戦後の増築部分)
西日暮里方向を見ている。 11・12番線は、1956年(昭和31年)開通部分。
それから50年以上・・・。 レールの余命は少ないかもしれない。
錆びた柱
その根拠は、錆に錆びた古レールの塗装をしていないことにある。
まだ使うつもりなら、こうまでなる前に塗り直しているはずだ。

と思っていたが、最近ようやく塗り直された。

北側から見たホームの屋根 (山手線の内側から)
3面のホームのうち、3・4番:常磐線(左側)と 11・12番(右側)の屋根に古レールが使われて、ほぼ同じ形式で残っていたが、常磐線のホーム幅の拡張に伴って、2013年に上屋も更新された。 
過去のものとなった写真は、青いタイトルとした。


日暮里駅ホームの不思議
 ・なぜ レールの梁が あちらも こちらも 「切断」された状態なのか?
 ・なぜ 9・10番線の屋根だけが更新されているのか?
 ・11・12番線は後から作られたのに、なぜ 連続アーチの屋根なのか?
  (かつての連続屋根構造は 4ホーム、3番線から10番線までだった)
 ・なぜ 廃墟のような無惨な状態で古レールが放置されているのか?


まず、駅の構成のおさらい。 
跨線橋については 「番外.1」を参照のこと。
 
         常磐線3・4番       9・10  11・12


跨線橋
 
跨線橋

紅葉坂橋

跨線橋


エキュート

コンコース




下御隠殿坂橋
5〜8番線は欠番(旧東北本線のホーム)  ↓西日暮里


確認事項:
■ 建設当初は 4連の上屋だった。

地図に詳しい K. I さんに戦前の空中写真が公開されている事を教えていただき、4本の屋根があった事を確認した。 終戦後の写真では、東北本線の上屋が撤去されている。

当初はこれらの事実をチェックせずに検討して、電車線増設時に「東北本線の上屋を移設・再利用」 という間違った結論を出していた。

4面のホーム
1936年(昭和11年)6月11日の空中写真/国土変遷アーカイブより
国土交通省のホームページで公開されている画像であるため、粗くて見にくいが、西側(写真下側)の増線用の敷地については次の戦後の写真と変わりがない。

つまり、新駅建設時から山手・京浜分離の計画のために西側を確保してあった、ということだ。 大戦のために遅れたこともあって、その約30年後に実現する。

           1939年(昭和14年)の写真 Wikipedia による
9番線(南行き電車ホーム)から ほぼ東方向を見ている。 4面ホームのうち、3面が写っている。 また 5本あった柱のうち、4本が写っている 貴重な写真だ。 ただし 4本目は手前の太い1本だけ。
一番奥に 京成線のホーム、乗客がいるのが常磐線ホーム、手前の二面は東北本線だが、すでに使われていないようだ。
想定される撮影位置
紅葉坂橋も南側の跨線橋も写っていないので、当時のホームの北側 階段付近から撮影したものだろう。

終戦後 1948年(昭和23年)3月29日 撮影
写真サイズ : 400×169 ドット
東北本線のホームには上屋どころか 柱の影も形もない・・・。 撤去された時期は不明である。 戦時中の金属供出に従ったのか?

次の写真右 4番線側の「梁がカットされている状態」によっても、新駅オープン時には 4本のホームをつなぐ上屋があったことが伺える。
3番線側 端部 4番線側

JRと 京成の境界部で、オリジナルのままの部分。

カットされた梁。
隣は 東北本線。 跨線橋はC。


3 ・ 4 番線 それぞれのホームの様子
3 ・ 4番線 : 常磐線
跨線橋 B から下りる階段の途中から。 (1 ・2番線は京成電鉄)
このホームの竣工時期は日暮里駅の全面移転新築時で、1928年(昭和3年)の下御隠殿坂橋 開通に合わせて行われたものと思われる。

ホームが拡張されたため、現在、この古レール屋根はほとんど残っていない。 過去のものとなった写真は、青いタイトルにしてある。

  建 築 年 : 1928年(昭和3年)の下御隠殿坂橋完成時 または その少し前
  残っていた柱の数 : ホームを跨ぐ 2本柱 12本
  柱 間 隔 : 約 5.5 m (6ヤード)、 桁つなぎ : レールによるアーチ
  棟 高 さ : 約 5.8 m (山型のレールの最高部)
  屋  根 : 山型、波形スレート、 母屋 : 木製

3番線側              2009.12.13
 ”端部仕様”のオリジナルのままの部分。
京成線は高架駅ができてここの線路は撤去されたところだが、以前はJRとほんとうに隣り合わせだった。 この敷地をJRが購入(あるいは賃貸?)することになった。 
京成線のホームから 鶯谷方向を見る。


京成線地上部の線路が空いたため、JRが購入または賃借して 3 ・4番線のホームが拡張された。 上屋も更新されて、古レールはほぼ消えてしまった。
前掲写真の柱の位置に、新たな線路が通されたのだから しかたがない。

拡張された3番線           2013.11.26
上野方向を見ている。  ↑______拡張部分_____ ↑
この部分は京成線側に柱を立て直したため、ホーム上には柱が無い。 

とりあえず残った柱
西日暮里方向を見ている。 4番線の階段に関係する 3本だけが残された。 いずれ無くなるだろう。
ホームに新しく建てられた柱から、アクロバティックに支えられている 昔の梁。 よくまあ作ること。 この部分は、木製の母屋も 少しだけ残っている。

3番線 北端
三河島方向を見ている。 右側に京成線の下り線路があった。 ホーム北端の拡張幅は80センチ程度。 線路の付け替え工事は 2013年10月20日に行われた。 この写真を撮った時点では、ホームの床は まだ仮設だった。


東北本線ホームの撤去:
東北新幹線は 1982年(昭和57年)に大宮までが暫定開業され、上野地下駅に乗り入れるために、日暮里駅では東北本線の二つのホーム(旧5番線〜8番線)が撤去された。

すでに前掲の 1974年(昭和49年)の写真で、ホームの解体が行われているような気配があるが、そんなに早くから取りかかっていたのかどうか? 

Wikipedia によると、解体工事は1977年(昭和52年)。

左 常磐線ホーム と 通過する東北本線
跨線橋 B から。                     コンクリート部が新幹線↑


9 番線 ・ 10 番線 それぞれのホームの様子
4連の両サイド(端部)は、3番線と 10番線、ということになる。

現在の9・10番線の上屋は造り直されてしまっているが、一ヵ所だけ、オリジナルの古レールが残っている。 「跨線橋 C」 の 10番線側である。

跨線橋C部分の オリジナルの梁
から左側の部分が運良く残っている部分で、ほんの4m程度だが、緩やかなカーブの形状は 常磐線ホームと同じである。 部で柱とつなぎ直されている理由が 今のところ不明。

1956年(昭和31年)に 11・12番線(山手線の内側ホーム)が増線されたが、この柱は、二つのホームに連続した上屋が掛けられていたことを示す、唯一の柱である。
梁と柱の全景


 なぜ 9・10番線の屋根は更新されたのか?

9・10番線の上屋が更新され、跨線橋Cが建設されたのは (空中写真の比較によると)1974年から 79年の間で、東北新幹線が上野地下駅を目差す 「トンネル工事」 に伴うものだった。

9 ・ 10 番線 の現在の屋根
9番線:京浜東北線 南行き、10番線:山手線外回り
新しい屋根は 「谷型」の現代スタイル。 ホームに柱が立っている。
ここも かつては、古レールによる 同じ「山型」の屋根が架かっていて、ホームに柱は無かった。

東北本線のホームを2本潰して線路を寄せても それほど余裕は生まれず、新幹線をギリギリで通すためには、アーチの柱を撤去せざるをえなかったのである。
工事をするためには もっと線路寄りまで掘削するので、たとえ 元の柱が の位置にあったとしても、支障が出ただろう。

9・10番線の上屋 更新、跨線橋C 新設
(1979年の空中写真)
東北本線の線路は常磐線側に寄せられ、新幹線部分の工事が始まっている。 9・10番線の屋根は更新されて色が白い。

3・4番線 と 11・12番線の屋根からはみ出している「柱」も白い。 もしかすると、この時塗装されて以来、30年以上放置されているのかもしれない・・・・。 この時点ではまだ「南口」はできていない。

この写真から6年後、1985年(昭和60年)になって ようやく新幹線が上野まで乗り入れた。

新幹線の建設時に 9 ・10番線のオリジナル屋根は撤去されたため、現在残っている柱の10番線側は「切り落とし」の状態となっている。
跨線橋 B から見た 9 ・10番ホーム
更新された上屋       10番線 山手線外回り    11番線 山手線内回り
鶯谷方向を見ている。 見えているのは 紅葉橋 と 跨線橋C、南口。

オリジナルの屋根の跡 (印)
西日暮里方向を見ている。 跨線橋 B に撤去された屋根の跡が残っている。 電車をカバーするほどの幅で、左側に後から作られた屋根よりもずっと広かったことがわかる。


11 番線 ・ 12 番線 戦後の増線
1956年(昭和31年)11月に、日暮里駅では山側に2線 増線されて、山手線と京浜東北線が分離された。
11番線:山手線内回り、12番線:京浜東北線 北行き
新設された屋根は 常磐線のアーチ型とは少しデザインが違って、下材が直線である。 増築前は、ここには右から斜面(土手)が迫り出していた。
(1948年の写真参照)

  増 築 年 : 1956年(昭和31年)11月 開通
  残っている柱の数 : ホームを跨ぐ 2本柱 13本
  柱 間 隔 : 約 5.5 m (6ヤード)、 桁つなぎ : レールによるアーチ
  棟 高 さ : 約 5.8 m (山型のレールの最高部)
  屋  根 : 山型、波形スレート、 母屋 : スチール・アングル

11番線:山手線内回り 12番線:京浜東北線 北行き



崖が迫っているため、柱は壁に斜めに定着されている。
1955年(昭和30年)に造られたこの擁壁には、銘板がある。

一番下側、山手線の内側に新ホーム
(1974年の空中写真)
9 ・10番線の上屋はオリジナルのまま残っており、増線時には9番線から 12番線まで、2連の屋根が架かっていたことを示唆している。
その名残りが残っている柱が、前掲 跨線橋C付近の一ヵ所である。



 後から作られたのに、なぜ アーチが連続していたのか?

10番線までしかなかったホームの隣に 11 ・12 番線が増設された。
増築の事実がはっきりしているのだから、答えは簡単。 継ぎ足しである。

調査を始めた頃は 「増築のはずなのに 初めからあったように見える」 のが不思議だった。 しかしよく見れば、増築の跡がちゃんと残っている。 「錆」に惑わされたのである。 ただし、単純な増築ではなさそうだ。


増線の予定が無かったのなら ・・・。
3番線 端部 オリジナル 4番線 中間部 オリジナル 10番線 旧端部
現存する。 中間部は当然「左右対称」である。  
建設当初、4連の両サイド(端部)は、3番線と 10番線、である。
増築を考えなければ、このように3番線と対称形の ”端部仕様”となる。

ところが、実際に残っている柱は字型であり、「増築端 仕様 」だったのだ。 Wikipedia 日暮里駅の項に、跨線橋からの転落事故の報道写真が載せられており、確認することができた。
事故が起きたのは 新駅移転時に造られた南側の跨線橋端部で、壁の羽目板が破れて乗り換え客が落下し、運悪く 10番線に進入してきた北行き電車に轢かれて、8人が亡くなったそうだ。 
当時は構内の跨線橋が2本しかなく、常磐線から 田端 ・鶯谷方面に向かう人たちと、逆に常磐線に行く人とで混雑したのだろう。
1952年(昭和27年)6月の現場写真
Wikipedia より
事故現場
1948年(昭和23年)3月29日 撮影の空中写真
写真サイズ 400×251 ドット  撮影は米軍/国土地理院
当時の9 ・10番線は、山手線と京浜東北線が共有していた。 10番線の外側に写っている柱は対称形の「Y字型」で、上下2本の長い梁(増築端) が柱を軸とした対称形に伸びていることが確認できた。 また、屋根の軒の出が長くて電車を覆うほどで、先に述べた、渡り廊下に残る10番線の屋根の跡と一致することも確認できる。
昭和初年の 新駅建設時点で、もう1本 ホームを増設することが決まっていた事になる。


同様の形は、1925年(大正11年)に山手線が環状運転を開始した時の上野駅で採用されていた。 高架ホームはまず第一ホームだけが完成し、線路敷きの柱は増築を考慮して造られている。これと同じスタイルだったのだろう。 下図は『東京市街高架線 東京上野間建設概要』(1925年(大正11年)11月鉄道省発行)に載っている実施図面である。
上野駅 1 ・2番線ホーム 断面図
1925年(大正14年) 山手線環状運転開始時の第一乗降場
右側の、線路の中央にあった柱が「増築端仕様」である。 左側は上野公園への坂道があり、「端部仕様」の柱の状態は現在も残っている。


10番線 と 11番線の間の柱 (現状)
西日暮里寄りに4本残っている柱 その他の 多くの柱
本題から離れるが、左の4本は、背中合わせの2本の柱レールの片側が バーナーで切り取られ、灰色のH形鋼で補強されている。 元は同じだったものが、山手線の車両幅を片側5cmずつ広げる時に、クリアランス不足で削られたもの と考えられる。

4番線 中間部オリジナルとの最大の違いは、最上部のレールが「二段重ね」で継がれている点と、左右が非対称、つまりは造り直されている事である。 増築側は「溶接」で加工されている。

増築部分      2011年9月の状態
部にプレートが添えられて、柱と梁が溶接されている。 マウスを載せると赤く網が掛かる部分が 新設部分。 オリジナル部の接合はリベット止めだが、新設部材に関係する箇所はすべて溶接である。 ただし、新設屋根本体部はリベット止めで造られている。

なぜこのようになったのか?

まず 実測の結果、ホームの間隔はほぼ同じである。 このため同じ傾斜で同じ高さの屋根を架ければ、増築端がそのまま使えたはずである。
筆者の結論は、
 ・ 屋根の高さが少しだけ高い
である。

さいわいな事に、取り払われた 9 ・10番線(右側)の屋根の跡が跨線橋にはっきりと残っている。 水平線(赤線)を引いてみると、左側の新しい屋根の方が高い位置にあることがわかる。 (西日暮里方向を見ている。)

せっかく増築端を設けていたものの、増築ホームの屋根の高さを少し高くしたため、予定していた位置よりも上にずれた( 矢印)。 このため、上段のレールを上に乗せ、下段のレールは角度を変えて溶接して対処したと考えられる。 (既存の写真を合成したもの。)


以上より、屋根の変遷を 模式図で示した。 当初はすべて連続していて、右側端部は増築端仕様だった。 (前掲写真とは逆向き。鶯谷方向)
建設時の状態 4連の屋根
←屋根の形











10

増築端仕様

←この写真は
  カットされたもの
 常磐線       東北本線      東北本線     山手・京浜線
ホーム増設前の状態
切断 切断 ←屋根の形






東北本線
通過

戦前に
上屋を撤去





10
 
                  1956年 ホーム増設後 の 状態             2連の屋根
新設






東北本線
通過





10
11

12
右側を溶接加工
新幹線建設後 の 現状
新しい上屋



東北本線
通過
新幹線
2線新設


10
11

12
常磐線 ホーム撤去 レールの柱撤去

国鉄の「標準設計」としてのリベット仕様は 1957年(昭和32年)までであり、1956年完成の上屋は最後のリベット接続による構造体となった。 

また、90年前の古い柱を利用したこと、錆びだらけで放置されていることなどが、見た目に一層の「古さ」を感じさせる要因だが、還暦を過ぎているのだから古いことは間違いない。



構内の様子

木造の破風内壁 と スレート屋根  11・12番線
母屋は木造ではなく、スチール・アングルが使われている。

11番線から 10番線を見る
西日暮里方向を見ている。 一番手前は、唯一現在でも 11番線と10番線を繋いでいる柱である。 横断している跨線橋は 紅葉坂橋。

ビームをホームの柱から釣っている 斜張形式
9・10番線のホーム延長部分。屋根が低いために利用できず、柱を高くして吊っている。  ほかでは あまり見たことがない。

遠い山手線              2010.4.13
常磐線から見た山手線方向。 2010年撮影。
山手線に較べて常磐線の本数は少ない。 電車が見えるだけに、乗り換える人は跨線橋を走る羽目になる。 
 (この古レールは 現在ほとんど造り替えられた)

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