山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | 日暮里 → 鶯谷 |
5.寛 永 寺 橋 |
1883年(明治16年)に 日本鉄道の上野-熊谷間が開通した時、田端村から上野までの間で、台地の上から東側に下りる主な坂道は11本あり、上野駅の真横にあった車坂以外は 踏切となっていた。 | |
北から、 | |
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である。 ( 太字は現在も 橋や架道橋がある坂 ) 寛永寺橋につながる坂は 御隠殿坂と新坂の間であるが、はじめはまったく道が無く、後から作られた坂道である。 |
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それは次の「新坂」も同じで、江戸時代の付近一帯は寛永寺領であり、台地の上から東側に下りて行く必要性が無かったためである。 「御隠殿坂」は 別邸の御隠殿ができてから作られた。 「寛永寺坂」が作られたのは1916年(大正5年)から1921年(大正10年)の間で、切り通しと踏切を作り、当時としては道幅の広い「言問通り」が開通した。 |
位 置 (終戦後の様子) |
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院 |
日暮里駅 京成線 言問通り 鶯谷駅 |
遠 景 (日暮里方向 を見る) |
鶯谷駅ホームの端から |
全 景 (山手線の内側から) 2010.4.8 |
平地側には 両側に黄緑色の階段がある。 |
近 景 (山手線の外側から) |
左が鶯谷駅。 橋のデザインが 御隠殿坂橋とよく似ている。 付近のコンクリート橋は、一斉に塗装工事が行われている。 |
山手線の内側から | 橋の下から |
信号機には「寛永寺陸橋」の名がある。 橋の工事は昭和初期。 すでに何本もの線路があるなかでの工事であったため、プレキャスト・コンクリートの梁が使われているようだ。 |
山手線の外側 | |
山手線の外側はここから 長い長いスロープとなっている。 以前は鶯谷駅前交差点に下りる形であったが、陸橋にして作り直された。 地下を新幹線が走る。 |
山手線内側の親柱 | 後付けのガードレール | ||
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位 置 (終戦後の様子) |
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院 |
日暮里駅 京成線 言問通り 鶯谷駅 |
■ 寛永寺坂橋 データ | ||||
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位 置: | 台東区根岸二丁目〜上野桜木二丁目 | ||
管理番号: | − | |||
道路名: | 言問通り | |||
橋 長: | ||||
幅 員: | ||||
竣工年: | 1928年(昭和3年)8月1日 下御隠殿坂橋と同じ時期である |
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跨ぐ線路: | 4線 : 山手線、京浜東北線 2線 : (新幹線 地下) 4線 : 東北本線(宇都宮線、高崎線) 2線 : 常磐線 合計 10 線 |
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備 考: | 橋の親柱には「寛永寺橋」とあったが、ここまでの橋の呼称に倣って、寛永寺坂橋とした。 | |||
名前の由来: | 寛永寺坂踏切 に代わる橋 | |||
坂名の由来: | 寛永寺の敷地内 そして 寛永寺の横を通る坂 | |||
寛永寺 の由来: |
徳川秀忠によって上野の領地が与えられ、家光が開基となって、1625年(寛永2年)の創建されたことに由来する。 比叡山延暦寺が788年(延暦7年)に創建された時に、年号を寺号に用いたことにならった。 |
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寛永寺坂の歴史 |
寛永寺坂の命は 約 10 年間だった。 |
1909年(明治42年)の地図 |
旧版一万分の一 上野 /大日本帝国陸地測量部/国土地理院 に加筆 以下 同様 |
新坂踏切 |
▼は寛永寺橋の位置。 ○が寛永寺。 踏切の名前は仮称 |
上野公園の噴水の位置にあった寛永寺の根本中堂は、幕末の彰義隊戦争で焼けた上に領地も没収されたため、1875年(明治8年)に現在の位置で復興した。 付近には、まだ多くの子院(塔頭)が残っている。 |
鶯谷駅の開業は 1912年(明治45年)なので、まだできていない。 |
言問通り(環状3号線)は早い時期に都市計画決定されたのか、右上に整備の兆しが見える ( ・・・・ 緑の点線)。 |
1916年(大正5年)修正の地図 |
線路際まで道路が延び、徳川家の墓地ぎりぎりに鶯谷駅ができている。 駅舎は初めから山側だったようだ。 |
鶯谷駅のすぐ南側(本図では右側)の(仮称)新坂踏切には、踏切の横に「人道橋」が架けられている。 |
1921年(大正10年)修正の地図 |
前の図とは スケールが異なる |
寛永寺坂の位置に 踏切と人道橋ができた。 線路のレベルはかなり低いので、道の両側には石垣で擁壁が作られ、急な切り通しとなった。 |
1930年(昭和5年)測量の地図 |
1925年(大正14年)の 山手線環状運転開始から 1928年(昭和3年)の京浜東北線 赤羽延長の年にかけて、付近の踏切が立体交差化された。 | |
折角作った切り通しだったが、結果的には10年も経たないうちに埋め戻された。 東側には、電車をクリアする高さまでの長い長い斜路が造られた。 |
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その後長い間変化はなく、昭和40年代の終わりに、鶯谷駅前交差点を立体交差する形で、「斜路」が更新された。 |
1974年(昭和49年)の空中写真 |
国土画像情報/国土交通省 CKT-74-15/C25 |
架け替えにあたって言問通りを長い期間通行止めにするわけにはいかないので、まず斜路の両側に、橋の東詰(写真では上側)の場所から出入りする、短い斜路が作られた。 (1972年竣工) 立体交差化の竣工は1975年(昭和50年)で、全体では4年以上掛かかった。 橋詰めの歩行者用の階段は、新しい斜路の さらにその外側にはみ出している。 |
山手線の外側 | |
奥に見える白い橋が 寛永寺坂橋。 |
山手線の外側のスロープ と 親柱 | |
寛永寺坂 |
上記の歴史の通り、一度できた寛永寺坂は すぐに橋となってしまったため、「寛永寺坂は無くなった」と書くつもいでいた。 |
ところが、鶯谷駅構内の地図では、元の坂の位置に「寛永寺坂」の名があり、また現地、橋の西側(台地側)のたもとに 台東区が建てた坂名の柱がある。 説明を引用すると、 |
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寛永寺坂 |
改めて見てみると、わずかだか 線路に向かって下りとなっている。 |
なお 上記の「説明板(柱)」はもう少し手前、線路際の位置にある。 |
付近の情景 |
坂の遺構を発見 ! |
旧 寛永寺坂は切り通しで 両側に石垣があったはずだ、と考えて 再度現地取材した結果、 ありました。 ↓寛永寺坂橋 |
天端に化粧の敷石があり、形とサイズが揃った立派な石垣だ。 1916年から21年(大正5〜10年)の間に造られ、1930年(昭和5年)までには埋められたもの。
線路に近い位置であるから、石垣の高さは数メートルはあっただろう。 それが埋め戻された状態である。 芋坂の湾曲したスロープ部分、公園側の石垣と似ている。 ストックされていたここの石垣が、芋坂の敷地整備に転用された可能性がある。 石垣がいらなくなることなど、滅多にないことだ。 しかし芋坂広場の整備は戦後と考えているので、25年も後のことになってしまう。 |
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そして 寛永寺 |
東叡山の根本中堂。 この本堂は 川越市にあったお堂を移築したもの。 余談ですが、左の大きな木はヒマラヤスギ。 寺院には似合わないと思う ・・・。 |
いたる所に葵の御紋 | |
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