山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

秋葉原 → 神田
6. 柳原通り 架道橋

やないはらどおり かどうきょう。  
これでも昔は市電が通っていた大通り。  今は靖国通りを車が通過するので、静かな並木通りとなっている。  

A〜D の名称は仮称だが、この架道橋の橋台(高架橋の端部)は左右で線の振り分けが違う。  秋葉原側は 3線+3線、神田側は 内側4線+2線。
このうち外側の2線は 東北縦貫線の工事で桁が取り外され、橋台を作り直す工事中である。

A 部分 (山手線内側の2線) : 竣工1925年(大正14年)4月

全 景 (山手線の内側から)
夕暮れの架道橋。 東北縦貫線の工事中だが、こちら側は変更無し。
架道橋より道路幅が狭いため、神田側のガード下には倉庫のような建物がある。
 
桁 A の下から  秋葉原方向を見る
1925年(大正14年)の山手線環状運転開始時には、まず 3線分の橋脚が造られて 内側(左側)の二本が架けられた。  
 
秋葉原駅3番ホームから  神田方向
京浜東北線が渡ろうとしているところが架道橋である。       神田川橋梁↑


B 部分 (山手線外側の2線) : 竣工は未確認だか A部とほぼ同じ

全 景 (山手線の外側から) 2010.10.1
東北縦貫線工事のためにC部分の桁が取り外され、今まで見えなかったBの桁の側面が出現した。
 
桁 B の下から  秋葉原方向を見る
          A部分 2線              B部分 2線
初めにA部の2線が開通したのは間違いないが、B部の内側、つまり山手線の内側から3本目にある銘板(桁の製作年)も 1924年(大正13年)である。

そして、A・Bの桁は デザイン・構造共に同じことから、A部 2線に引き続き、ここに写っている4線ともできたと考えている。
1925年に4本ともできていた可能性も大きい。


C 部分 : 未確認だが、1955年(昭和30年)頃の竣工。 1956年開通。

2010.1.30 在りし日の第2柳町橋高架橋 および 柳原通り架道橋 C部分
ホームページを作り始めてまもなく、「とりあえず」歩いた時に撮った1枚。
山手線の外側から神田方向を見たもの。  東北縦貫線で壊されるとは思っていなかったので、こちら側も1枚しか撮らなかった。

撤去された架道橋と高架橋  2010.11.5 の状態
新幹線の下から神田方向を見ている。 新しく高い位置に架道橋が架けられる。


D 部分 : 新幹線、竣工1990年(平成2年)頃

遠 景 (山手線の外側から)
                                     柳森神社

D部分の下から 秋葉原方向を見る
I 型のプレキャスト・コンクリート桁をたくさん並べたもの。

新幹線のすぐ横に「ふれあい橋」がある。 建設時に、いわば迷惑料として作られたものであるが、駅と柳原一帯を結ぶ 非常に便利な近道となっている。



位 置 (終戦後の様子)
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院
      秋葉原駅        中央線                        神田駅

柳原通り架道橋 データ

位 置: 千代田区神田須田町二丁目
  東京駅より 1K 803M 87
管理番号:  15 (東北線)
道路名: 柳原通り
線路の数: 計 8 本 (下記 A〜D は仮の呼び名)
A: 2本: 京浜東北線北行き、山手線内回り
B: 2本: 山手線外回り、京浜東北線南行き
C: 2本: 東北縦貫線2線 工事中、
D: 2本: 東北上越新幹線
支 間: A: 18m 89
空 頭: 高さ制限表示 なし
竣工年: A: 1925年(大正14年)6月
B: 1925年(大正14年)か?
C: 1955年(昭和30年)頃
D: 1989年(平成元年)頃
備 考: A部の桁の銘板は脱落してしまっている。
B部の銘板(桁の製作年)は1924年(大13年)
名前の由来:  通りの名に由来する。
道名の由来: 柳原河岸に沿った道
「柳原」の由来は柳原河岸高架橋の項 参照


柳 原 通 り

柳原通り
萬世橋      佐久間橋 和泉橋   柳原橋                1916年(大正5年)修正/国土地理院
    山手線                                         浅草橋     柳橋 隅田川
柳原通りには市電が走っていた。 靖国通り(大正通り)も昭和通りも、まだ できていない。

現在の 柳原通り
所々に柳が植えられている。

木造建築
ビルに挟まれた3軒の建物。 架道橋に近い所の風景である。

神社の向かいに これも同じ銅板葺きのボタン屋があり、そのご主人の話では、この付近は関東大震災ですべて焼け、昭和になってすぐに建てられたものそうだ。

蕎麦屋の「まつや」や「藪」がある 須田町一丁目とともに、二丁目も戦災には遭わなかっため、このような建物が残っている。



周辺の情景

柳原橋 と 岩井川

柳原通りを横切る「岩井川」(明治時代に掘られた運河)に架かる橋が、柳原橋であった。 今は埋め立てられたその川の痕跡を探ってみた。

柳原通り 拡大図
      山手線                          柳原橋↑ 大和橋  岩井川
岩井川は、下町に鉤の手に曲がった形に掘られていた「龍閑川」と、「神田川」を結ぶ形で掘られた運河である。 建設時期は未確認だが、明治中期だったと思われる。

神田川の 岩井川分岐口の跡

柳原橋の跡
道路がここだけ盛り上がっており、歩道の舗装がほかと違う。
川は埋め立てられて、建物が建っている。 左側の道路はもとからあったもの。

靖国通りに架かっていた「大和橋」の下は、今でも駐車場として使われている。

交差点脇の駐車場入口

丁度、車が出てきた 道路下の堀の石垣 (フラッシュ使用)

車路の幅は狭い。

川底は埋められて、天井高は2.5m。

物資の運搬用にも使われた堀だけに 幅は広く、10mぐらいある。

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