山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | |
東 京 → 有楽町 |
4. 第4有楽町橋 高架橋 |
重複を避けるために、有楽町の名前の由来と 高架橋の構造 については、別項としたので参照していただきたい。 |
有楽町付近の高架橋 ・架道橋 名称 | ||
→ 新橋 山下橋架道橋 |
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鍛冶橋架道橋 東京 ← |
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1916年(大正5年)修正測図 の1万分の1地図 / 国土地理院 | ||
東海道本線・山手線の工事は 新銭座から 東京駅に向かって行われたために、高架橋などの番号は新橋方面から付けられた。 |
高架橋に、山手線の内側から 以下のような仮称を付ける。 |
A部 B部 B部 -2 C部 |
: 4線 : 2線 同 上 : 新幹線 |
: 1910年(明治43年)9月竣工 : 1942年(昭和17年)7月までに増線 : 1954年(昭和29年)4月までに増線 (第四高架橋の一部のみ) : 1964年(昭和39年)開通 |
A 部分 : 電車線4線分 1910年(明治43年)9月に竣工 |
新銭座-永楽町間 東京市街高架鉄道建設工事 | |
旧汐留駅が起点だった旧東海道線から分岐して、新銭座〜永楽町間の新線工事が 1896年(明治29年)に開始された。 永楽町は現在東京駅がある場所の旧町名。 開通は 1910年(明治43年)9月で、呉服橋仮駅まで。 |
第四有楽町橋高架橋 北端、鍛冶橋橋台部分 2010.8.12. |
長い「有楽町橋」のスタート。 |
山手線の内側 2013.3.21. |
この道は旧都庁舎時代には庁舎の構内で、道路ではなかった。 1991年に新宿に移転した跡地は東京国際フォーラムとなっている。写真右側にガラス棟。 道路は平らだが、歩道は次第に高くなっている。 なぜだろう・・・? |
補強済み と 奥の未補強アーチ 2010.8.12. |
2012.3.8. |
この場所は2年間から変わっていない。 急いでいるわけではないようだ。 |
借り手が決まって 店舗の工事 2010.8.12. |
よく見たら、内側に銘板が埋め込まれていて、ここの補強工事は1984年(昭和59年)。 30年も前のものだった。 |
山手線の中でも一二を競う好立地だけに、「ガード下の飲み屋」とは違う、デザインされた店構えが並んでいる。 |
有楽町橋高架橋 (第一 〜 第四)の橋脚部のデザインは、前半の 新橋-有楽町間とは異なっていて 円形のメダリオンである。 しかし、第四有楽町橋高架橋の場合は、手前に少しだけ使えるスペースがあり、店舗が入居するとそこに建物が建てられることが多いため、 ほとんどのメダリオンは見えなくなっていた。 最近の補強工事で、所々に見える場所がある。 |
円形の縁取り部分には 淡い緑色の柔らかそうな石が使われている。 |
連絡通路 |
第四有楽町橋高架橋の 南側から 15スパン目。 半分以上が通路になっていて、東側に抜けられる。 この補強は簡易的なものか。 通路を進むと、A部の反対側、山手線の外側にも 円形メダリオンが残っている。 |
山手線の外側 |
B 部分 2 線、: 有楽町側、1942年(昭和17年)7月 竣工、 東京側、1954年(昭和29年)4月 竣工 |
B部分 山手線の外側 2012.3.8. |
↑京葉線地下駅入り口。 鍛冶橋架道橋では 東京駅のホームの位置関係で、B部とC部(新幹線)はかなり離れているが、このすぐ先で接近する。 ところで、写っているB部は 戦後に造られたものである。 |
戦前の工事は 第四の途中までだった |
国鉄東京工事局の歴史をまとめた『「東工」90年のあゆみ』には、東京〜品川間線路増設の説明文として 「(前略)鍛冶橋架道橋より汐留架道橋 2.8kmは複線3柱式鉄筋コンクリートラーメンスラブ橋、(後略)」 となっている。 しかし、実際に戦前に建設されたのは 鍛冶橋架道橋よりも手前(南側)、であった。 戦後 米軍が撮影した空中写真が証拠である。 |
戦前施工の B部分 | ||
鍛冶橋架道橋 |
有楽町駅 | |
1948年(昭和23年)3月の空中写真/国土地理院 |
3月29日撮影、南西からの日の陰で 高架橋がはっきりとわかる。場所は 第四高架橋のほぼ中間である。 現地で確認してみた。 まず有楽町駅から。 |
有楽町駅ホーム北端から見た B部分 2013.3.29. |
コンクリート製の手摺りのデザインが 明らかに違う。 あそこが境目だろう、と 下に降りて 架道橋沿いに歩く。 |
継ぎ目? を見る |
新幹線の下から西方向を見ている。 コントラストが強くてうまく撮影できない。 デザインが変わる場所は確認できたが、空中写真から割り出した位置とは違う。 もう少し北側のはずだ。 もう一度 位置を確認する。 |
1948年(昭和23年)3月の空中写真/国土地理院 |
写真上部、旧運河横の道は、現在の高速道路沿いの道から 一本北の道として現存する。 その道を延長した所が、戦前に建設された高架線の端部となる。 |
1974年の空中写真 |
四半世紀後の古い空中写真だが、戦前の建物がまだ残っている。 延長線は旧都庁第三庁舎、現 トーメンビルの南端あたりとなる。 その結果、・・・ |
戦前までに建設された高架橋の北端 |
山手線の外側から 西方向を見ている。 実は さっきの連絡通路だ。 ▲この梁 または 通路の左側の柱から南(写真では左)が戦前に造られたもの、と結論づけた。 撮影位置の背後が トーメンビル敷地への入り口となっている。 |
空中写真から割り出した位置というだけでなく、たまたま であるが、左右で柱のデザインが異なっていた。 |
戦前の柱 | |
柱の角に 大きな面取りがある | |
戦後の柱には 無い | |
それでは、コンクリート手摺りの模様の違いは なぜ別の場所なのか? 別の空中写真の影から、十数メートルの区間には「手摺が無かった」 と推定している。 |
1948年(昭和23年)3月の空中写真/国土地理院 | ||
→ 北上する電車 (6両編成) |
旧 有楽橋 写真サイズ 400 × 300 |
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外 濠 |
分かり易くするために前掲写真とは向きを変えてある。 同じ3月29日の撮影なのだが撮影コースが異なり、朝に撮ったもの。 高架橋の端部には手摺りの影が無く、少し南の地点 ▼から始まっているのがわかる。 A部を走っていた東海道本線は、ここから 新設されたB部 に移っている。 |
C 部分 : 新幹線 2線 |
1964年(昭和39年)10月 : 東京オリンピック開催に合わせて東海道新幹線 開通 |
山手線の外側から 2013.4.10. |
鍛冶橋架道橋 ↑ |
左 新幹線C部 と 右 東海道本線B部 との間 |
JRの敷地だが 車もなんとか通れる道がある。 すぐに隙間がなくなって、そこからはC部の高架下が道となる。 スパンを飛ばして 柱間隔を広げているのは、車を通しやすくするためだろう。 |
柱は鉄板で耐震補強されている。 |
隣地は私有地で道路がないため、高架下を使うとしても半分以上を通路にする必要がある。 有効なスペースが少なくなるので、すべてを通路としたのだろう。 |
山手線の外側 |
ここまで来れば、もうすぐに有楽町駅である。 |
位 置 (終戦後 一部が6線の状態) |
1948年(昭和23年)3月の空中写真/国土地理院 |
東京駅 有楽町駅 |
写真サイズ 400 × 243 ドット |
■ 第4有楽町橋 高架橋 データ | |||
位 置: | 千代田区丸の内三丁目 | ||
管理番号: | − | ||
道路名: | − | ||
線路の数: | 8 線 (下記 A〜C は仮の呼び名) | ||
A: 4線: 京浜東北線山手線 B: 2線: 東海道本線 C: 2線: 東海道新幹線 | |||
橋 長: | 約 200 m | ||
アーチの数: | 山手線の内側で | ||
竣工年: | A: 1910年(明治43年)9月竣工 B: 1942年(昭和17年)7月までに増線 B2: 1954年(昭和29年)4月までに増線 C: 1964年(昭和39年)開通 | ||
備 考: | 有楽町の由来 ・A部の構造 は別項を参照 | ||
名前の由来: | 江戸時代初期に 小田有楽斎の屋敷が付近にあったとされる事に由来する。 | ||
タイトルの地図について : 地図サイズ 299×94 |
明治42年(1909年)測図、 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図 「日本橋」に加筆 大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行 |
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