山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | |
有楽町 → 新橋 |
11. 内幸橋 架道橋 |
遠 景 (山手線の内側から) 2013.4.10. |
左が東京電力本社。 原発事故以降は警察官が警備に当たっていて、カメラを持ってうろうろしていると職務質問される。 山手線の内側から順に 以下のような仮称符号を付けた。 写真は南方向を見ているので、右が山手線の内側となる。 |
A 部 T 部 TX 部 |
: 山手線、京浜東北線 計 4 線 : 東海道本線 2線 : 新幹線 2線 |
: 1910(明治43)年6月25日開通 1956(昭和31)年 架け替え : 戦前 1942(昭和17)年7月までに増線 : 1964(昭和39)年開通 |
よく見ると、年代を経るごとに 少しずつスパンが大きくなっている。 |
と書いたが、現地の塗装履歴によると A部が一番長いことになっている。 またA部分は、「山下橋架道橋」と同様に架け替えられている。 |
A 部分 | 1910(明治43)年6月25日に2線開通 | |
1914(大正3)年12月 東京駅開業 4線開通 1956(昭和31)年 架け替え工事 同年 11月 山手線と京浜東北線 分離 |
全 景 (山手線の内側から) 2013.3.29. |
道路に橋脚を二本立てた3径間で、両側は歩道。 その形状や戦後に架け替えられたことも、ひとつ前の「山下橋 架道橋」と同じである。 線路と直交する道には立派な 「国会通り」の名札があった。 あまり聞いたことがない。 |
竣工当時の様子 |
『東京市街高架鉄道建築概要』 (1914) の写真に加筆 |
北方向を見ている。 内幸架道橋部▲の外濠には橋が架かっていない。 市街高架橋の計画当初には、ここに道路が計画されていたために架道橋を設けたが、1903(明治36)年3月の「市区改正の計画変更」で、道路が廃止されてしまったためである。 このため 昭和になるまで開口を晒していたのだが、 一時的に「木造仮設の橋」が架けられて電車が渡っていた。 |
『最新東京名所百景』(発行年 発行者不明)に、その写真が載っている。 |
『最新東京名所百景』 | |
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前掲写真で外濠の右側を走っている市電が、写真の手前にある「土橋」の工事期間中だけ、この架設の橋を通っていたそうだ。 完成しているレンガ高架橋の上には電車用の「架線」が張られていないので、山手線の開通前であることわかる。 有楽町まで開通した1910(明治43)年6月以前、ということになる。 |
新橋側の橋脚 2013.3.29. | ||
@複線を並列した4線、 A穴の開いた四角い橋脚、 B下路開床式 (バックプレート付き)、 C3径間のヒンジが橋脚部分直上にある など、「山下橋 架道橋」と瓜二つである。 大きな違いは、後からブレースが取り付けられていないこと。 このために橋脚の間が通行可能なため、「ガードの下」に横断歩道がある。 | ||
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同じ構造なのに、ブレースはなくても大丈夫なのか? と思ってしまう。 車の通行(桁下)を確保するために、桁は軌道より上に出ている。 複線三主桁の中央桁の中央部分だけはさらに高さが大きくなっている。 ( ▼部分 ) | ||
「山下橋 架道橋」と同様に、バラスト(砂利)が詰められていないので、ガード下は騒音が大きい。 上部の様子も よく似ている。 | ||
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A部を架け替えた理由を探る |
現在の桁は戦後に架け替えられたものだが、両側の橋台は古いままなので、道幅は変わっていない。 ほかの場所では今でも明治の桁が使われているというのに、なぜ架け替えられたのだろうか ? |
1948(昭和23)年3月29日撮影の空中写真 | ||
外濠 ← 有楽町 |
→ 新橋 写真サイズ 400 × 296 |
架け替えられる 8年ほど前の写真。 山手線と京浜東北線が分離される前で、中央の2線は使われていない。 外濠側の2線が 東海道本線。 できる限り拡大してみると、架道橋部分では枕木が見えない。つまり最初の架道橋の構造は「閉床式」で、騒音防止のための砂利に埋まっているようだ。また、桁は道床上部とほぼ同じレベルのようだ。 |
周辺の架道橋をチェックすると、架け替えられていない「鍛冶橋、第三有楽橋、第二有楽橋、幸橋の第2線 ・第3線、二葉橋第1〜3線」は、いずれも閉床式である。 このことから、戦後にあえて開床式に架け替えた理由として、「桁下寸法(空頭)の確保」が考えられる。 そう考えると、有楽町方向の橋台上部に見えるコンクリートは、桁下のレベルを高くするための「嵩上げ」のように見えてくる。 |
有楽町側の橋台 |
しかし、幸橋 や 二葉橋 のように、4線のうちの一部分が「同じ高さ」で架け替えられている事実を目の当たりにすると、上記の「着目」は尻つぼみとなってしまう・・・。 ほかに考えられる理由としては 沈下による桁の変形・輸入材で作られた桁材の強度不足・腐食 などが考えられる。 |
新橋側の橋台 2013.4.10. |
橋台は 震災や戦災の影響はさほど受けていない。 |
ピン構造のベース。 |
脱落した銘板 2014.4.25. |
90年以上経つ大正期の銘板の多くが健在であるにもかかわらず、1956年(昭和31年)の銘板が脱落しているのは、どういうわけだろう。 |
このため銘板による桁の製造年が確認できないため 『 東京鉄道遺産をめぐる 30 帝都の赤絨毯 − 新永間市街線 その1−』 / 小野田 滋 / 鉄道ファン 2013年5月号 を参考にしている。 |
有楽町方向の橋脚・橋台 2014.4.25. |
T 部 2 線分 | : 1942年(昭和17年)7月 竣工、現 東海道本線 |
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新橋方向 2014.4.29. | ||
TX部 |
A部 | |
この桁は 複線3主桁 下路閉床式で、バラストが敷かれている。 仮囲いがあって、コンクリートの橋台が見えない。 奥は一部が駐車場として整備され、引き続き工事中。 |
新幹線 東海道本線 電車線 |
有楽町方向 2010.8.12. | ||
A部 | TX部 |
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すぐ手前に東海道新幹線の桁があるため、全体像は写せない。 ラーメン屋の右隣部分が、内山下橋高架橋の下を山下橋架道橋まで続く通路である(次の写真)。 | ||
有楽町駅方向を見ている。 |
TX 部分 | : 東海道新幹線 2線 : 1964年(昭和39年)10月 |
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山手線の外側から 2013.3.19. |
本体の桁はねずみ色で、A部、T部 と同じように、線路の上部に桁を突き出している。 |
有楽町方向 2014.4.25. |
右側の首都高速道路との間の通路は、一方通行出口。 一般車は通れない。 |
位 置 (終戦後 6線の状態) |
1948年(昭和23年)3月の空中写真/国土地理院 |
有楽町駅 新橋駅 |
写真サイズ 400 × 135 ドット |
■ 内幸橋 架道橋 データ | |||
位 置: | 千代田区内幸町一丁目 東京駅より 1K 504M 54 |
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管理番号: | 7 (東海道線) | ||
道路名: | 国会通り | ||
線路の数: | 8線 (下記 A〜TX は仮の呼び名) | ||
山手線の 内側から |
A: 4線: 京浜東北線 ・山手線 T: 2線: 東海道線 TX: 2線:東海道新幹線 | ||
総径間: | A: 18.18 m (工事記録の 60尺による) 現在の塗装記録は 19.00mとなっている T : 18.90 m ( 塗装記録による ) TX : 18.80 m( 塗装記録による ) | ||
空 頭: | 高さ制限 : 3 . 7 m | ||
竣工年: | A: 1910年(明治43年)6月 複線開通 1914年(大正3年)12月 複々線開通 1956年(昭和31年)6月 架替え工事 T: 1942年(昭和17年)7月までに増線 TX: 1964年(昭和39年)10月1日 開通 | ||
名前の由来: | 鉄道が通された地名に由来する。 | ||
開通時の名称は「内幸橋」。 当時附近に同名の橋はなく、ほかの架道橋のように附近の橋名に因むものではない。 外濠に「新幸橋」が架けられたのは震災後のことである。 江戸時代の当地は武家地であったために地名がなかったが、明治以降に「内幸町」となった。 幸橋御門の内側だったことに由来する。 そこに鉄道が通されたために、内幸町の橋 として、架道橋名が「内幸橋」、ここに続く高架橋には「町」が付けられて、「内幸町橋」とされた。 |
市街(新永間)高架鉄道の縦断面図 | ||
新橋駅 |
有楽町 方向→ |
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『東京市街高架鉄道建築概要』 (1914) |
新 幸 橋 |
内幸橋架道橋のすぐ近く、高速道路の下に 「新幸橋」の石碑が建っている。 |
わざわざ碑を残してあるのだから、「新幸橋」がここにあったことは間違いない。 問題は名前の重複で、昔の「新幸橋」は別の場所にあった。 これ以降
その古い橋を 「旧 新幸橋」 と表記する。 関係する 元祖「幸橋」は次の架道橋の名称となっており、再度登場するが、このホームページでは「外回り」の順番なのでここで検証したい。 たくさんの地図をチェックした上で、ここが「新幸橋」となった経緯を類推してみよう。 |
幸 橋 |
「幸」の字義として「みゆき、行幸 すなわち 天子のおでまし」があるが、この橋の名称が「さいわいはし」 なのか 「みゆきはし」 なのかは未確認。 最初の地図は、江戸時代末期 嘉永期(1850年)の「切絵図」。 |
1850年(嘉永3年) 『芝愛宕下絵図』 / 尾張屋清七 | ||
後の内幸町 外濠 |
汐留川 |
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国会図書館デジタルコレクション より |
1871年(明治4年) 幸橋御門(御幸橋御門) |
Wikipedia より (元版は 『鹿鳴館秘蔵写真帖』/平凡社) |
取り壊される直前の明治初年の姿。 堀の外側から北を見て撮ったもの。 橋の長さは短く、低い欄干は石造りのようだ。 平面形状は、1883年(明治16年)測量の 5,000分の1地図でわかる。 |
1883年(明治16年)測量 の地図 |
北 |
南 |
左右の幅は前掲の切り絵図とほぼ同じ範囲。 ○ : 内幸橋 架道橋 の位置、 ・・・・・ : 線路のおよその位置 線路は外濠をかすめて通されたので、橋のすぐ脇を通った。 開通時には新しく命名された「内幸町一丁目」には、東京府庁舎、そこに府立一中(現日比谷高校)が同居していた。 次は前図の部分拡大。 |
1883年(明治16年)測量 の地図 |
門や櫓は取り払われたが、当初は橋や石垣がそのままだったことがわかる。 江戸期には幸町はなかったが、橋の前の広場だった所に家が建ち、地名が「新幸町」となった。 |
幸橋の およその位置 ▼ | ||
第一ホテル 東京 |
幸橋架道橋 | |
○ : 内幸橋 架道橋 水色は外濠の位置を示す。 当然だが、水面はずっと下にあった。 |
旧 新幸橋 |
濠が埋められる前に、現在の日比谷通りの位置に 「旧 新幸橋」▲ が架けられていた。 名称は「幸橋」の隣に架けられたことに由来する。 |
1907年(明治40年) 『芝区全図』 / 東京郵便局 |
烏森駅 |
外濠の 幸橋 − 虎ノ門間は、北側に細い水路 ・・・・・ を残して埋め立てられ、白い「地面」となっている。 水路部分には、短い「幸橋」や「旧 新幸橋」(恐らく 二代目)が残っている。 新永間の高架鉄道は 1900年(明治33年)9月に工事を開始し、1907年(明治40年)にはレンガの高架橋が完成していた。 郵便局の地図はその少し前に調査されたもので、烏森駅(1914年・大正3に新橋駅と改名)の詳細はまだ記されていない。 |
1916年(大正5年)一万分の地図 | ||
水路 |
汐留川 | |
大日本帝国陸地測量部/国土地理院 サイズ: 400 × 300 |
図面「新橋」の北西部分にあたり、白い部分は枠外。 4線分のレンガアーチが完成し、1910年(明治43年)9月に呉服橋まで 2線開通。 100年前の 1914年(大正3年)年に、4線開通した後の状態。 まだ 水路は残っている。 |
1923年(大正12年)9月 関東大震災 |
1925年(大正14年)部分修正 |
震災後 2年ほど経った地図だが、まだ水路と橋は残っている。 内幸橋の外濠には、まだ橋が架かっていない。 |
新 幸 橋 |
1930年(昭和5年)空中測量 |
ようやく 「新幸橋」 ▲ の登場である。 そして細い水路はなくなり、幸橋も旧新幸橋も無くなっている。 このために、あらためて「新幸橋」と名付けたのだろう。 |
石碑の右側面に説明がある。 一部判らない部分があるが、おおよその読み下しは次のとおり。 |
大正十二年の惨禍に鑑み、有志醵金を仰ぎ、此のところに橋梁を架け、東京府に寄贈するを以て、永く公共の安全に資する 昭和 四年 十月 荘司岩三郎 / 藤平久太郎 |
年月は竣工日だろう。 左側面には、資金を提供した個人や会社の名前が並んでいる。 ここの外濠には「山下橋」と「土橋」の間に橋が無かったため、震災の時に銀座方面から日比谷公園へ逃げるのに、大回りをしなければならなかった。 聞くところによると、そのために犠牲者が増えたのだそうだ。 そこで、昔からガードがあって 山手線を く ぐれるこの地に有志が橋を架けて、府に寄贈した ということになろう。 |
1948年(昭和23年)3月29日 の新幸橋 ▲ |
撮影は米軍 / 国土地理院 / サイズ 400 × 296 |
タイトルの地図について : 地図サイズ 299×94 |
明治42年(1909年)測図、 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図 「日本橋」に加筆 大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行 |
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