山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋
有楽町 → 新橋

1. 第3有楽橋 架道橋
2013.6.26 アップロード
2013.8.20 各部に付けた 仮の名称を変更、 現東海道線を 部 などに。
2013.9.3 部 と 部が造られたのは同じ年、との見解に訂正。
2013.9.20 P部の桁の製造が 1951年(昭和26年)であることの考察追加

:第4有楽町橋高架橋        :第3有楽町橋高架橋        :第2有楽町橋高架橋
      ll第3有楽橋架道橋 

有楽町駅建設当初は 架道橋にホームは架かっていなかったが、現在の第二乗降場は、東京駅方向まではみ出している。

第3有楽橋架道橋 遠 景         2010.8.12


東京国際フォーラム


有楽町駅
 国際フォーラム口
山手線の内側 ( 前掲写真 )から。

山手線の内側から順に 以下のような仮称を付ける。







TX
 : 現京浜・山手線 3線
  (建設当初は 4線)
 : プラットホーム

 : 京浜東北線 南行き

 : 東海道本線 2線
 : 新幹線 2線
 : 1910年(明治43年)9月15日開通
      いずれも単線2主桁
 : 1964年(昭和39年)12月 延長部 竣工
    1968年10月 10両編成開始
 : 戦後1951年(昭和26年)頃増線
      桁は T部と同時に架けられた
 : 戦前 1942年(昭和17年)7月までに増線
 : 1963年(昭和38年)頃工事
    1964年(昭和39年)開通
 B部 + 部の3線が 戦前に建設された事に注意。



A 部分 : 旧電車線、旧東海道本線 計4線分 
        1910年(明治43年)9月に竣工

新銭座−永楽町間の新線建設時に レンガ造の高架橋が造られ、鋼鉄製のプレートガーダが架けられた。 100年以上の時が経った今でも、3分に一回、電車の荷重を支えている。 現在使われているのは、内側の3線。

近 景 (山手線の内側から)       2010.8.12
通行車両の制限高さは 4.2 m (現在は 4m)と高めである。 隣の鍛冶橋架道橋が 3.8 m、東京駅の北側 呉服橋架道橋は 3.6 m。 場所によって制限高さが違うのは、高架橋を水平に造ったためで、ここは地盤がほかより低い という事。 室町時代までは海だったかもしれない。 
なお、桁の銘板は脱落している。

橋脚の様子             2010.11.1
新橋方向を見ている。 
当初の4線のうち 外側(写真では左側)の一線は、ホーム増設のために撤去された。 白く塗られたレンガ橋台は使われている。

東京方向を見る              2010.11.1
撤去された4線目は この右隣にあった。

鉄骨で補強された 橋脚        2010.8.12
ブレースで補強されたのは 一番内側の橋脚だけ。 残りの2組は ほぼオリジナルである。 

左 : オリジナルのブレース、 右 : 補強   2013.3.21

オリジナル 補強済み
柱は地面に埋め込まれておらず、台の上に半球状のボールを介して、いわば 乗っているだけ。 専門用語では、剛接合ではなく ピン接合。

一部補強              2010.8.12
二線目・三線目の橋脚。 鋼棒によるブレースはそのままだが、柱の上部が後から補強されている。 ( 部分)

橋脚上部詳細                      2010.11.1
東京駅の北の呉服橋架道橋までは、共通する柱頭のデザイン。 補強プレートは 元のレーシング(×型の補強)を外してからボルト・ナットで取り付けられている。 
架道橋と架道橋の隙間は、カバーはされているが緊結されていない。

         東京駅側橋台               2010.8.12
隅石もきれいに残っている。 レンガの橋台のデザインは一続きではなく、2線分がセットとなっていて、真ん中のへこみに雨樋が立てられている。

残念ながらレンガが白く塗られているが、ほかで見られる テカテカの透明塗装よりも まだましだ。 レンガを削り取る手間もないし。

第二ホームから見た A部 3つの架道橋       2012.2.5
新橋方向を見ている。 プレートガーダの中央部の成が高い。(砂利よりも出っ張っている)

第一ホームの北端から東京駅方向を見る
100年前から、架道橋部分にも砂利を詰めて騒音を防ぐ仕組みがあった。

参考までに、東京駅寄りの「鍛冶橋架道橋」の断面図を挙げておく。 鍛冶橋架道橋は2線で一組なので橋脚が3本並んでいる。 砂利が詰まっているのはグレーの部分。
参考 : 鍛冶橋架道橋 断面図
『東京市街高架鉄道建築概要/鉄道院 東京改良事務所/1915年』に加筆



T 部 3 線分 : 1942年(昭和17年)7月 竣工、現 東海道本線

記載は 建設順とするため、次は T部の 現東海道線となる。

戦前に2線を増線したのは、東海道線・横須賀線の線路容量が飽和に達した上に、品川に旅客操車場が新設され、それに伴う回送列車が増加したためである。
しかし戦争が激しくなったため、高架橋が増設されたのは東京駅の手前、第4有楽町橋の中間までであった。 
    (次の写真 まで。第4有楽町橋高架橋 B部 参照)

部の終戦時の状態
@ : 1948年(昭和23年)3月の空中写真
有楽町駅    写真サイズ: 400 × 300 / 国土地理院

新設架道橋の端部のすぐ南側で新線に移行しているのは明らかである。 その横の 旧線部分の荒れ具合からすると、ここには線路が無さそうだ。
(次の写真の ・・・ 点滅部)
        A : 旧線の使用状況 ( @ の部分詳細 )
写真サイズ: 400 × 300 / 国土地理院
新設した線路は利用したのだが、空中写真を見ていくと 有楽町駅の南側でもポイントらしきものは無く、「山下橋架道橋」付近では 明らかに線路がない状況となっている。 つまり、せっかく6線にしたのに、中央の2線は戦後まで 使われなかった。 
帝国ホテル と 山下橋架道橋
  ライト設計の 旧帝国ホテル本館                外濠
前掲写真とはスケールが異なる写真サイズ: 400 × 196 / 国土地理院


第3有楽橋架道橋に戻って、終戦後の状態を確認したい。

B: 1948年(昭和23年)の第3有楽橋架道橋
↓新橋         写真サイズ: 400 × 278 / 国土地理院
@をさらにアップしたものである。 右の2線 ・・・ がT部の、新設した東海道線。  左側2線 ・・・は 山手線と京浜東北線が共用していた2線で、ホームは1面だけ。 明治に建設された架道橋は、4線とも残っており ( 1〜4 )、4線目が撤去されるのは、ずっと後である。

将来計画がしっかりしている国鉄なので、第2ホームのスペースは確保されていて、開口となっている。( 部 )

T 部の下から 新橋方向を見る       2013.3.21





B部


A部
Bの写真とは逆方向を見ている。 左側2線が 戦前に造られた 3主桁構造の 部。 橋台 ・高架橋は 3柱 ・2スパンだが、駅付近では 左側の方持ち部も合わせて3線分を確保している。 歩道に柱は建てずに1径間とした。

が 前掲写真の開口だった所で、後にホーム( P 部 )となった。 問題は B部の建設時期だが、次で考察する。

東京駅方向を見る
東京側は 橋台の雰囲気が 新橋方とは少し違う。          新幹線↑
前の写真からは少し右寄り、新幹線の下から。

第二ホームから            2011.2.5
新橋方向を見ている。 左側 2線が T部。      ↑B部     P部↑

 

B 部 : 現 京浜東北線 南行き
架橋は部と同時期 : 1942年(昭和17年)7月
開通は 第二ホームが造られた1951年(昭和26年)11月

1948年(昭和23年)の第3有楽橋架道橋
↓新橋         写真サイズ: 400 × 278 / 国土地理院
終戦後の写真には B部 ( 点滅) に床のようなものがある。 の部分はRC造の高架橋なので床があるのは当然だが、架道橋部分に床のようなものがあるということは、線路は敷かなかったが架道橋だけは3線とも同時に施工した可能性がある。 しかし、この解像度では詳細は はっきりしない。

可能性としては、
   1.戦前に 桁だけは架けた。  2.仮設の床
のふたつが考えられるが、 1.は 同時に造るのに なぜ 部と同じ構造ではないのか?、 2.は A部との隙間が半分だけしか覆われていない点で、共に不自然さがある。

筆者の見解は、1. 桁だけは 3線分架けた、である。

ホーム から             2013.3.29
東京方向を見ている。 部2線は A部と同じ構造で、バックルプレートにバラストを充填した閉床式で騒音を防いでいる。 ところが B部は、何らかの理由で枕木が露出している 開床式 である。 (雨を受ける板はある)
その理由は、列車線(現 東海道線)と電車線(現 京浜東北線)とのレベル差にある。
後から増線された東海道線は、東京駅では高架橋ホームとなり、建造時から レベルが高い。 一方電車線は 明治期に建設された レンガアーチの高さに合わせざるをえず、両者に差がある。

線路のレベルが決まったうえで、ガード下の「空頭」(道路から 梁下までの寸法)を確保するためには、T部のようにバラストを充填する「閉床式」にはできなかったのである。 (A部は3径間なので、桁の高さは小さい。)
T部 と B部 とのレベル差
戦前に造られたのが確実な コンクリート部分。 (見えているのは中央口架道橋) 間に段差があり、さらにバラストが盛り上がっているので、線路のには 40センチぐらいのレベル差がある。

T 部、B部には「銘板」が無いため、桁の製作年が特定できずに苦労したが、構造が違う原因に気がついてから 改めて桁を見ると、「同時に架けられた」と考える方が自然だと思われた。

A : 1948年(昭和23年)3月の空中写真
前掲 @、A の写真も、「桁がある」と思ってみれば そう見えるのだが、同じ年月日の撮影で 別の写真をコントラストを強くしてみると、明らかに繋ぎ材の出っ張りが写っている。 ▼▼の間に少なくとも6つは判別できる。

以前は、隣の部に取り付けられた銘板によって、1951年(昭和26年)に製造された とも考えたが、製造銘板を別の桁に取り付けるわけがない。

参考 : P部に取り付けられた 2枚の銘板
B部 ではなく P部
参考 : 左側の銘板
4行目の左側に「昭和26年」の文字がある。 

T 部 と B部


B部



P部

A部
           T 部 2線              B部
新橋方向を見ている。 部は、戦前に建造したのがはっきりしている 部と構造が違うが、リベット止めの作りで繋がっているのであるから、同時に架けられた と考えるのが自然である。


山手線近距離電車分離
1949年(昭和24年)12月に始まった 山手線・京浜東北線の複々線化は、それまで長い間2線を共有していた両者を完全に分離するための工事である。 戦前の工事も含めて、市街地である田町- 田端間に2線を増線するのは大変だっただろう。 昭和31年の竣工までに約7年間かかっている。

まず先行して、1949年(昭和24年)11月から「東京駅引上線新設工事」として、呉服橋架道橋−千代田町架道橋間 700mに高架橋を新設する工事がスタートする。 工期は2年間。 

その他の工事は2期に分けられたが、2期といってもほぼ同時並行して進められた。
一期工事の主な項目は、新橋 ・有楽町各駅にホームを1面増設、東京駅有楽町側および神田側に高架橋を新設、東京駅手小荷物扱い所新設、東京駅ケーブル地下道新設、東京駅第6・7ホーム新設、上野駅第5高架ホーム新設、など。
1954年(昭和29年)4月には一期工事が完了して、国鉄悲願の縦貫線が完成し、常磐線が有楽町まで乗り入れたそうだ。

  部への線路敷設とホームの増設は この一期工事に該当する。

二期工事は 複々線運転開始に伴う工事で、田町・浜松町間 旧計画の立体交差除去工事、浜松町ホームPC上屋新設、東京駅構内高架橋新設、鍛冶橋架道橋(S部)増設、東京-上野間高架橋および架道橋の増設、神田・御徒町・日暮里各駅にホーム1面増設、上野駅高架10番線増設、上野−田端間路盤構築、など。

1956年(昭和31年)11月には すべての工事が完成して、分離運転が開始された。



P 部分 : 有楽町駅 第二ホーム の延長部
              銘板(桁の製造年)は 1951年(昭和26年
              竣工 1964年(昭和39年)12

B部で述べたように、第二ホームが竣工したのは 1951年(昭和26年)11 月であり、その時にできたのは 第三有楽橋架道橋の南側までで、道路には掛かっていなかった。 
その後に延長された部分である ここ 部に、ホームの一期工事が竣工したのと同じ 1951年(昭和26年)の製造銘板が付いている。 
なぜだろうか?
 
部の下で 東京方向を見る





A部






B部
もともとここには 明治時代に完成した A部の第4線があった。

ホームの床レベルは レールよりもずっと高いので、明治時代の既存の橋台を嵩上げして桁の位置を高くしたうえで、桁の上部に梁を渡して床を張っている。 電車よりも荷重が少ないため、両側の桁同士をつなぐ鉄骨材の構成も簡易である。

桁にはリベットが使われているが、水平ブレースの取り付けには「ボルトナット」が使われており、部分的には溶接もあるので、ホームの延長工事時に再加工したことがわかる。 

東京側の橋台

P 部


嵩上げ部





古い橋台



B 部







戦前に
増設された
橋台
ホームは 東京側ほど狭くなっていくので、東京側の橋台では、古い橋台からはみ出ている部分が少ない。 荷重は 部の橋台に掛かっている。

部の下から新橋方向を見る









ホームの幅は線路の約2倍と広く、外側(上の写真では左側)の桁は、戦前に造られた 部の橋台に乗っている。 銘板があるのは 部の桁の駅寄り 左内側である。
東京方向 新橋方向

P部に取り付けられた 2枚の銘板

左側の銘板 @
桁の製造銘板で、4行目の左側に「昭和26年」の文字がある。 「銘板」を付け替えることなど考えられないので、最重要情報となる。

注目すべきは 2行目 左側にある「活荷重 KS18」で、この桁がホーム用ではなく 「架道橋」用に造られたものである事を示す。 二行目右側は いわゆる図面番号で、恐らく 「では822-8-(1)」である。 その意味は、

     では:上路鈑桁の略符号、 活荷重 KS18、 支間22m、
            8番、 1径間 (または複数桁の中の1つ目の桁)

KS荷重は、1928年(昭和3年)にメートル法への移行に伴って制定された 橋梁用の設計荷重で、Kは機関車、Sは車両の頭文字といわれている。  KS-18は、石炭車付きの機関車が2つつながった、重連の仮想列車を想定した重い荷重である。
 
右側の銘板 A
通常、銘板の一行目には「日本国有鉄道」などと書かれるのだが、これは「ホーム桁」と明記されており、桁の製造銘板ではなく、工事概要となっている。 
    4行目 活荷重は 500 Kg/坪? 
    最後の行が竣工年で、1964年(昭和39年)12月。 
10両編成の車両に対応するための延長だったが、桁の製造 @ とホームの延長工事竣工に、13年もの隔たりがある。
                       (10両編成の開始は1968年10月)
 
そこで、以下に色々な可能性を挙げてみた。
    1.ほかの場所の架道橋用として、昭和26年に作られた桁を転用した
    2.第2ホーム建設時に、(予算がついて)延長用の桁を作製しておいた
    3.ホーム延長計画のために、あらかじめ桁だけは架けた
    4.製作途中で方針変換した桁を転用した

1. 転用案 (ほかの場所からの転用)
増設された第二ホームの北側に続く位置であり、ホーム用に使われているのだから、初めからこの位置で架道橋用に設計・架橋されたものではない。

だとすれば、ほかで使っていた桁の「転用」しかない。

しかし現在のところ、昭和26年に作られて すぐに不要になった架道橋は思いあたらず、また、桁そのものにも転用前の痕跡(ふたつの版桁をつないでいた跡など)がないため、この案は 保留とする。

2. 事前製作・保管案
T 部には、戦前にすでに3線分の桁が架けられていたのだから、昭和26年に造るとしても、ホーム用として設計すれば十分で、架道橋の仕様で造られたのは不自然。

3.事前架設案
長期計画がしっかりしている国鉄なので、3.が正解かと思ったが、1963年(昭和38年)の空中写真を見る限りでは、ここの場所に まだ明治の「旧桁」 が、撤去されずに残っているようだ。(未確認事項)

4.設計変更で廃案となった桁を転用
最後に考えた案は、B部用として製造を始めたが、廃案となったケース。
部の桁の両端の高さが 小さくなっている事に注目。
戦前に架けてあった T 部 3線のうち、結果的にはB部は上路開床式架道橋となったが、当初、騒音を押さえるために 桁の中央部分を下げてバックルプレートを入れ、砂利を敷こうというもの。 

第2ホーム建設時、すなわち B部の開通時に架け替える予定だったが、道路から見た高さ 「空頭」が小さくなることが認められず、使われなかったものを、13年後に転用した。

しかし、そんな計画性のない事は考えられない。 結局、正解は判らずじまいである。



TX 部分 : 東海道新幹線 2線 : 1964年(昭和39年)10月

東京オリンピック開催に合わせて10月1日に開通。 このため 工事や桁の製作はそれよりも早く、銘板は1963年(昭和38年)である。

山手線の外側から           2010.11.1

東京駅方向を見る           2012.1.30
新幹線の外側(写真右側)は一般道路ではないため、高架下が東京駅方面の通路となっている。


                位 置 (終戦後 6線の状態)
1948年(昭和23年)3月の空中写真/国土地理院
  有楽町駅                              新橋駅
写真サイズ 400 × 135 ドット

第3有楽橋 架道橋 データ


位 置: 千代田区丸の内三丁目 東京駅より 676M 73
管理番号: 2 (東海道線)
道路名: 仮称 有楽橋通り
線路の数: 8線 (下記 A〜TX は仮の呼び名)
山手線の
  内側から
A: 3線: 京浜東北線山手線
P: プラットホーム
B: 1線: 京浜東北線 南行き
T: 2線: 東海道線
TX: 2線:東海道新幹線
総径間: A: 21.15m (東京市街高架鉄道概要による)
        (塗装履歴では 21.90m)
空 頭: 高さ制限 : 4. 0 m
竣工年: A: 1910年(明治43年)9月 複線開通
   1914年(大正3年)12月 複々線開通
P: 1964年(昭和17年)12月 竣工
B: 1951年(昭和26年) 頃
T: 1942年(昭和17年)7月までに増線
TX: 1964年(昭和39年)10月1日 開通
備 考: A部架道橋の竣工は、4線同時だと思われる
名前の由来:  付近の橋および町名に由来する。
 ただし 外濠への架橋は大正期以降である。
この架道橋に限らず、付近一帯の高架橋も含めて、「有楽町」の地名にちなんでいる。
詳しくは、「有楽町の由来」の項を参照の事。

 
有 楽 橋

江戸時代、外濠に架けられていた附近の橋は 鍛冶橋 と 数寄屋橋で、有楽橋は 1915年(大正4年)4月1日に開通した。

有楽橋があった場所          2013.6.12
橋の名は 交差点名として生き残っている。 外濠通りで南から北方向を見ている。
有楽橋の開橋式         1915年(大正4年)4月1日
土木学会『戦前絵葉書ライブラリ』より / 次の写真共に 土木学会の掲載許可取得済み
有楽町側から 銀座方向を見ている。 また次の写真は南から東京駅方向を見ている。

土木学会誌 第1巻 第4号 大正4年8月発行
彙報 「最近竣成したる東京の橋梁」高木 精一 より

開通の翌年 1916年の地図
国土地理院 / 地図サイズ 400 × 298 ドット
初代 有楽橋 概要:
   開通 1915年(大正4年)4月
   橋長 39.1 m、 幅 10.9 m
   軌道下はプレートガーダー、外桁はRC桁、その他は木桁
                   土木学会『橋梁史年表』による
                   原資料は 『東京の橋』/伊東 孝 ほか
   開橋式の写真のように、当初 市電は通っていないが、1919 年
   (大正8年)の地図からは市電が通っている。

有楽町が発展するとともに、通行量が増えた事が想像される。 一部が木造の橋では強度の面で問題になったためか、建造からわずか15年後の 1930(昭和5年)2月には、幅 13.1 mの鋼製の橋に架け替えられている。

なお、隣の「新有楽橋」の開通は 1926年(大正15年)3月。

附近は 1959年(昭和34年)までには埋め立てられた。

終戦後の 有楽橋
1948年(昭和23年)3月 米軍撮影/国土地理院、
写真サイズ 400 × 299 ドット


タイトルの地図について : 地図サイズ 299×94
明治42年(1909年)測図、 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図
「日本橋」に加筆            大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行

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