山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋
有楽町 → 新橋

5. 第2有楽橋 架道橋

:第4有楽町橋高架橋      :第3有楽町橋高架橋      :第2有楽町橋高架橋
                     ll :第2有楽橋 架道橋
線路と急な角度で交差する道路(仮称 大手町通り)に架けられたガード。駅の建設当初は 架道橋にホームは架かっていなかったが、現在は第一乗降場が新橋駅方向に延長されて、架道橋の先まで伸びている。
新永間の架道橋では 二葉橋架道橋とともに 「明治」 の銘板が残っている数少ないもののひとつ。

第2有楽橋架道橋 遠 景      2013.9.20.
山手線の外側から。             有楽町駅↑

写真A:竣工当時の 第2有楽橋架道橋

『東京市街高架鉄道建築概要』/鉄道院 東京改良事務所/1914年
有楽町駅↑
前掲写真と同じく、山手線の外側から丸の内方向を見ている。 手前に3線、駅の入口を挟んで、奥に第1線がある。

山手線の内側から 2013.8.1.

山手線の内側から順に 以下のような仮称を付ける。
A1部
P 部

A2部

B 部

T 部
TS 部
:現京浜北行き 1線
:プラットホーム

:現山手線 2線
  (建設当初は 3線)
:京浜東北線 南行き

:東海道本線 2線
:東海道新幹線 2線
:1910(明治43)年6月25日開通
:1968(昭和43)年
    10両編成開始以前に 延長
:1910(明治43)年6月25日1線開通
    建設はA1と合わせて4線
:戦後1951(昭和26)年頃 増線

戦前1942(昭和17)年7月までに増線
:1963(昭和38)年頃 工事
    1964(昭和39)年10月 開通



第二有楽町橋架道橋の歴史(概略)

1884(明治17)年 :「市区改正芳川案」東京の都市計画意見書が出される
 新橋 - 上野間を結ぶ鉄道の建設と中央停車場の設置計画
1889(明治22)年 :「市区改正委員会案」策定、高架線で建設を決定
1900(明治33)年 :市街高架線工事 着工
1909(明治42)年12月 :烏森駅(現新橋) 開業
1910(明治43)年6月 :有楽町駅開業、A部 第1・2線で電車運転開始
 架道橋は4線分架橋、ホームは 1面
1914(大正3)年12月 :東京駅 開業、架道橋の第3・4線 東海道線開通
1919(大正8)年 :神田-東京間が開通して「の字運転」、山手線が走る
1923(大正12)年9月 関東大震災 で駅に大きな被害
1925(大正14)年11月 :山手線 環状運転開始
 品川までだった京浜電車(京浜東北線)が上野まで延長
1942(昭和17)年 :2線増線(T部)。ホーム増設は 戦後
1951(昭和26)年 頃 :第二ホーム新設
1956(昭和31)年11月 :山手線と京浜東北線を分離運転
1960年代 :第一ホームの延長(P部)
1964(昭和39)年10月 :東海道新幹線2線(TS部) 開通



A1 部分 :旧電車線 1線 
1910(明治43)年6月25日に有楽町駅開業
新銭座-永楽町間の新線建設時に、A部は4線分が一度に造られた。架道橋のすぐ横に駅があり、後の神田駅と同じように改札口が架道橋に面していた。このため、第1線とほかの3線との間が大きく空いていた。今は その隙間に別の桁(P部)が架けられて、ホーム が延長されている。
写真B:有楽町駅旧南口 と 第2有楽橋架道橋

『東京市街高架鉄道建築概要/鉄道院 東京改良事務所/1914年』より
東京方向を見ている。左がA1部、右側がA2部。中央は有楽町駅の南口で、当初の改札口はここだけだった。
東海道本線(右側の2線)が開通していないので、1914(大正3)年以前の撮影である。

A1部では道床から少し上に出る形のプレートガーダが架けられ、120年後の今も使われている。古い桁ではほとんどの銘板が脱落している中で、第1線の北側に取り付けられた銘板が残っており、かなりはっきりと「年 拾四治明」と読める(次の写真)。年号の3文字目は 恐らく「」だろう。
拡大した銘板        2010.8.12.
塗装が剥げた MATERIALS のところには英文字が並んでおり、輸入材を使って 1909(明治42)年に製作されたことがわかる。
しかし 2024年1月に確認したところ、脱落していた。
全 景(山手線の内側から)   2013.8.1.
通行車両の制限高さは4m と「高め」である。3径間の中央部分は梁のせいが小さいので、そこはさらに高い。
先の鍛冶橋架道橋が 3.8 m、東京駅の北側の 呉服橋架道橋は
3.6 m。場所によって制限高さが違うのは、高架橋を水平に造ったためで、ここは地盤がほかより低い という事。室町時代までは海だったかもしれない。 
山手線の内側、日比谷口からすぐの橋台
A1 北側の橋脚 補強の様子   2012.2.18.
3径間なので 橋脚は2組あるが、これは北側である。道路が約35度の角度で交差しているために、橋脚の間隔が広い。南側も同じように補強されているが、上下関係の「ずれ」、つまり柱の傾きはこれが一番ひどい。
「ピサの斜塔」ならぬ、「有楽の斜橋」である。
かつての様子  2010.8.12. 改修後   2024.1.22.
衝突防止のための黄色い柱がなくても、傾いているのは一目瞭然で、相当なものだった。もともと 桁行き方向の横力は橋台が受け止め、橋脚は垂直の荷重を支えているだけで、単純に地盤が沈下しただけではこうはならない。
一度桁を仮受けして上部の接続位置を正し、ベースコンクリートを造り直して、4カ所の橋脚が補修された。上下にあった繋ぎ材は外されているが、柱の上下に固定金物が取り付けられ、橋脚のベース金物はアンカーボルトが打たれた。
かつての様子  2013.9.20. 改修後   2024.1.22.

近 景        2012.2.18.
      ↑A1 南側の橋脚      ↑P部   ↑A2部
南側の橋脚も同様にブレースと繋ぎ材で補強されていた。竣工当時は 細い綱棒のブレースだったが、X型のブレースは早い時期に追加され、その後に上下2本ずつのH型鋼を付け足していた。
改修後        2023.11.30.

京浜東北線ホームから
新橋方向を見ている。ホームは後から延長された部分。
第1線の桁の形状は、写真Aで見たように 3径間とも中央が上側に膨らんでいる。
ペイントは、電車の運転手用ではなく保線員のための表記だろう。



A2 部分 :旧電車線と旧東海道線の計3線、
 ただし、現在のこっているのは2線
間にP部を挟むが、先にA2部を。
4線とも開通したのは、東京駅が開業した 1914(大正3)年。
かつて3線あった直線部分の内、第3線は第二ホーム建設時に取り壊され、B部として造り直された(B部 参照)。
写真B:有楽町駅旧南口 と 第2有楽橋架道橋(再掲)

  ↑A1部分 1線  ↑綱棒のブレース      A2部分 3線 ↑
『東京市街高架鉄道建築概要/鉄道院 東京改良事務所/1914年』
東京駅方向を見ている。橋脚に取り付けられた X型のブレースが、極めて細い綱棒であることが見て取れる。不思議なことに、A2部の桁は上部が水平でA1とは形状が違う。
山手線は 東京 - 品川 - 新宿 - 池袋 - 上野間の C型となった。
この4線の状態は 現在の東海道本線(T部)が建設されるまで、30年以上変わらなかった。
写真C:3線が直線の有楽町駅

M23ハ-C2-23、陸軍撮影、撮影年月不明 / 国土地理院

同じ部分をP部の下から  2013.4.10.
地上レベルから、写真Bと同じく東京方向を見ている。ホームが延長され、旧改札口は閉鎖されてまったく面影が無い。
A2部分の下から新橋方向を見る  2010.8.12.

第3線        第2線           







前掲写真とは反対の方向を見ている。ブレースは後から付けられたもの。

東海道線の下から 山手線の内側を見る  2013.3.21.
3径間であるため 橋脚は2組ずつある。数字は内側からの線数で、当初は4組の橋脚が並んでいた(写真A 参照)。1線と2線の間に、後から造られたホームを支える橋脚(P部)がある。
中央径間の「吊り桁」の取り付け状況
中央部の
吊り桁

側径間






この時代では 中央径間の桁は「突きつけ」でリベット止めされていた。左右を繋ぐ水平のプレートもリベット留めで、初めから付けられていた。

橋脚詳細             2010.8.12.
東京駅の北、呉服橋架道橋までは 共通する柱頭のデザイン。 色が斑(まだら)なのは、部分的に塗装されているため。
丸い穴が開いている所が、元の「綱棒ブレース」が付いていた場所で、補強ブレースはレーシング(X型の繋ぎ材)を取り除いてから、ボルト・ナットで取り付けられている。
新橋側(南側)の橋台     2013.8.1.
旧改札口と対応した 反対側の場所には、同じ形の装飾ニッチ(壁を凹ませたもの)が残っている。 
A2 部分 A1 部分
一度 いたずら書きを削り取って、透明光沢塗料を塗った状態だが、再度いたずら書きされている。
犯人は足場などを組む暇は無いから、落書きは手の届く範囲に限られるため、上部は昔のままのようだ。

第二ホームから新橋方向を
A1部と違って上部に出っ張りがなく、砂利がギリギリまであるので 鉄桁は目立たない。



T部 2線分 :1942(昭和17)年7月 竣工、現 東海道本線
記載は 建設順とするため、次は T部 となる。

戦前に2線を増線したのは、東海道線・横須賀線の線路容量が飽和に達した上に、品川に旅客操車場が新設され、それに伴う回送列車が増加したためである。しかし戦争が激しくなったため、高架橋が増設されたのは東京駅の手前、第4有楽町橋の中間までだった。    (第4有楽町橋高架橋 B部 参照)

T部の終戦時の状態
写真D:1948(昭和23)年3月の空中写真





第二ホーム
予定地

T部、第線が戦前に架けられたことがわかる。
第3有楽橋架道橋や 中央口架道橋 と違うのは、第線の桁が無いこと。T部建設時に桁が撤去されたままになっており、第二乗降場の建設時1951(昭和26)年まで空いていた。
線・線を 山手線と京浜東北線が共用していて、この時点では 第3線は使われていない。
第4線の桁が無い理由は、T部建設時にすでに第二ホームは計画されていて、狭い場所で後から撤去するよりもT部の工事前に処理する方が楽だったためだろう。

T 部の下から 新橋方向を見る  2013.3.21.

B部




A2部
複線3主桁、戦前としてはロングスパンの架道橋である。3径間ではあるが、将来的に車道を自由に使えるようにとの配慮から、A部では車道に立てていた橋脚を 歩道に立てた。奥に見える3本がそれである。
ロングスパンなのに、桁下寸法はA部よりも大きい。桁の成(高さ)が必要な分は、上部に突き出ている。戦前・戦後、広い道に架けられた架道橋では、この形式のものが多い。
T部の桁の形体      2011.2.5.

T部2線                B部   電車は京浜南行き
桁が高くなっている所が、道路を跨いでいるスパンが長い部分。
T部の手摺り
戦前・戦後に造られたガードの手摺りは、東京地下鉄も含めてこのパターンが多い。V型に作ったフラットバーを上下に2個組み合わせたもの。
有楽町駅方向を見返す     2013.8.1.






 A 部





新幹線
新しい橋台は線路にほぼ直角に作られたが、道路は斜めであるため、架道橋の下に三角形の建屋が建てられている。橋脚の位置は変則的で、右の1本は この写真では建物の中に取り込まれていて見えない。次の写真の左側が、見えていた時の状態。
架道橋の下の建物    2013.8.1.
2010.8.12




2011年に、向かい側にあるマリオン・ビルに「ルミネ有楽町店」がオープンしたが、駅とは離れた店と駅との連続感を作るために、2013年にT部のガード下が改装されて「ルミネ・ストリート」の名が付けられた。門型の橋脚は新幹線TS部。

第一ホームから      2011.2.5.





第二ホーム

番号の色は 写真Dの番号に合わせてある
T部2線
北方向を見ている。第一ホームは新橋方向に伸びているので、架道橋を過ぎた場所から写せる。



B 部 :現 京浜東北線 南行き
開通は 第二ホームが造られた1951(昭和26)年11月
A部とT部に挟まれて十分な幅を確保できなかったため、ほかでは見られない、極めて特殊な桁が架けられている。
  ・新設の桁は片側だけで、反対側は既存の桁を利用
  ・1本の桁が 途中で折れ曲がっている

山手線近距離電車分離
1949(昭和24)年12月に始まった 山手線・京浜東北線の複々線化は、それまで長い間2線を共有していた両者を完全に分離するための工事である。
戦前の工事も含めて、市街地である田町- 田端間に2線を増線するのは大変だっただろう。昭和31年の竣工までに約7年間かかっている。
まず先行して、1949(昭和24)年11月から「東京駅引上線新設工事」として、呉服橋架道橋-千代田町架道橋間 700mに高架橋を新設する工事がスタートする。工期は2年間。
その他の工事は2期に分けられたが、2期といってもほぼ同時並行して進められた。
一期工事の主な項目は、新橋・有楽町各駅にホームを1面増設、東京駅有楽町側および神田側に高架橋を新設、東京駅手小荷物扱い所新設、東京駅ケーブル地下道新設、東京駅第6・7ホーム新設、上野駅第5高架ホーム新設、など。
1954(昭和29)年4月には一期工事が完了して、国鉄悲願の縦貫線が完成し、常磐線が有楽町まで乗り入れたそうだ。
B部への線路敷設とホームの増設は この一期工事に該当する。
二期工事は 複々線運転開始に伴う工事で、田町・浜松町間 旧計画の立体交差除去工事、浜松町ホームPC上屋新設、東京駅構内高架橋新設、鍛冶橋架道橋(L部)増設、東京-上野間高架橋および架道橋の増設、神田・御徒町・日暮里各駅にホーム1面増設、上野駅高架10番線増設、上野-田端間路盤構築、など。
1956(昭和31)年11月には すべての工事が完成して、分離運転が開始された。


B部の終戦時の状態
1948(昭和23)年3月の空中写真
第3有楽橋架道橋有楽町中央口架道橋 とは違って、戦後になるまで B部には架道橋がなかった。
これは、引き続いて行う予定だったB部の工事のために、A部第4線の桁を先行して撤去したためである。
1948(昭和23)年3月の空中写真
東海道本線 T部は、駅に第二ホームを増築することを前提として、東側(写真では上側)に大きく湾曲させ、将来の京浜東北線南行き部分(・・・・・)の高架橋も、連続したRC構造で建設した。
東海道本線の開通を優先したために、A部を取り壊わさなければならないホームの建設は後回しとしたが、その後世界大戦が始まってしまったために工事は先送りとなった。

B部は A部(右側)と同じレベル
東海道新幹線
TX 部



T 部


 

B 部       第二ホーム
山手、京浜4線の一部であるから、当然同じレベルである。
B部の桁の形式は、第3有楽橋架道橋や有楽町中央口架道橋と同じ「開床式下路プーレートガーダ」なので、通過時の騒音が大きい。道路の通行高さを確保するためには、桁を高い位置にセットする必要があり、砂利を詰める余裕が取れないためである。
特殊な形状の桁
右側の桁は、三角形のニーブレースが付いた通常の下路プレーガーダの構造だが、左側の桁が無く、既存のT部の桁に継ぎ足したもの。
通常の桁は直線だが、新橋側の橋台の残り幅が足りなかったためか、新設した桁を途中で曲げている。丁度、山手線と平行する部分へ向かうための曲線部となっているため、自然な? 形状となった。

B部 を見上げる
T部 2線    B部 橋脚↑       A2部
新橋方向を見ている。結果的に3線4主桁のような架道橋になったが、継ぎ足しで形式も部材構成も違う。雨受けパンがあるために、下からは構造体はほとんど見えない。橋脚も変則的で、既存のT部とは違う位置に設けた。
有楽町駅方向を見る     2013.8.1.







A2部


T 部
有楽町駅側には B部の橋脚はない。 
       有楽町駅側のB部の橋台

A2部
橋台は線路と直交しており、手前に建物が建っているので、外から見える橋台はこれだけ。
ここにあったレンガ橋台(A2部第4線部分)を撤去してRC造の橋台が造られた。タイル仕上げとなっている。第二ホームが始まるために、A2部とは間が空いている。



P 部分 :有楽町駅 第一ホーム の延長部
空中写真より、1963(昭和38)年6月から 1966(昭和41)年6月の間に建設されたことがわかっているが、竣工日は不明。銘板は見つからない。
10両編成が開始されたのは、1968(昭和43)年10月。
P部の下から新橋方向を見る





A2部

A1部
もともと A1部とA2部の間は空いていたが、橋台はひと続きで造られていたので、ホーム用の桁は既存の橋台に架けられた。

部の下から有楽町駅方向を見る
は 駅開業当初の改札口の跡。閉鎖されて面影はない。
桁の部材は溶接で作られ、ボルトナットで組み立てられている。山形の筋交いも当初からのものだろう。



TS 部分 :東海道新幹線 2線:1964(昭和39)年10月
東京オリンピック開催に合わせて10月1日に開通。このため 工事や桁の製作はそれよりも早く、銘板は1963(昭和38)年である。
山手線の外側から     2013.8.1.

真下で有楽町駅方向を見る
新幹線のすぐ外側(写真右側)には建物があるため、高架下が駅への通路となっている。



           位 置 (終戦後 6線の状態)
1948(昭和23)年3月の空中写真/国土地理院
 有楽町駅                       新橋駅

第2有楽橋 架道橋 データ


位 置: 千代田区丸の内三丁目 
  東京駅より 878M 70
管理番号: 4 (東海道線)
道路名: 仮称 丸の内通り
線路の数: 8線(下記 A~TS は仮の呼び名)
山手線の
  内側から
A:3線: 京浜東北線山手線
P:プラットホーム
B:1線: 京浜東北線 南行き
T:2線: 東海道線
TS:2線:東海道新幹線
総径間: A:41.88m
(東京市街高架鉄道概要による)
(塗装履歴:14.55+14.55+14.50m)
TS:32 m
空 頭: 高さ制限:4.0 m
竣工年: A:1910(明治43)年6月 複線開通
  1914(大正3)年12月 複々線開通
T:1942(昭和17)年7月までに増線
B:1951(昭和26)年11月 開通
P:1964(昭和39)年前後に 竣工?
TS:1964(昭和39)年10月1日 開通
備 考: 附近の高架橋や、A部架道橋の竣工は4線同時
名前の由来:  付近の町名および橋名に由来する。
 ただし 外濠への架橋は大正期以降。
この架道橋に限らず、付近一帯の高架橋も含めて、「有楽町」の地名にちなんでいる。詳しくは「有楽町の由来」の項、および「有楽橋」を参照の事。

タイトルの地図について : 地図サイズ 299×94
明治42(1909)年 測図、 大正5(1916)年 第一回修正測図 1万分の1地図
「日本橋」に加筆       大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行

Top Menu へ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 第2有楽町橋 高架橋 へ